6. 山城伝について

これまでに日本刀の伝法に於いて、大和、備前、相州の各伝について私の思う所を述べてきたのであるが、恐らく初めての方のみならず、むしろ従来より日本刀の事を勉強しておられる方までもが私の考え方に非常に大きく、又は、小さく差異や価値観の逆転を痛感しておられると思われます。併し、私としては全く根拠のない事を申した事は皆無であり、むしろ従前より日本刀について私のような考え方を唱えない人が多くあった事が不思議と申せましょう。

さて、山城伝という本題に入りますが、第一に”山城”という言葉が最初からして間違っているのであります。的確に申しますと”京伝”とするべきなのであります。つまり俗にいう山城伝、私の言う京伝の基本はというと、まさに”来一派”であります。古い(室町末期頃以降)の日本刀の目利本を読みますと第一番に”来”が取り上げられているのであり、現在での山城伝の代表”粟田口派”が第一番ではないのであります。さらに言うならば”来”は京洛内の鍛冶(“三条”、”五条”、”綾小路”なども)でありますが、”粟田口派”は京洛外の鍛冶であります。粟田口は京から近江へ向かう街道上の要衝にあります。青蓮院の近くでありますから洛内からみれば郊外の田舎?となります。こうした点を予め承知しておいて頂いた上で本題に入りましょう。

さて、”来”の作品が果たしてそれほど多く、つまり日本刀の本場物として取り扱うほどに多くあるかという点であります。本阿弥家では”来国俊”を基準にして他派、他国の作刀を評してきたのであるが、これは表面的にのみの見方であれば”来国俊”の作刀があちこちに現存するほどに多くあるというイメージがどうしても付きまとうのである。そしてその結果、現在多くの”?の来国俊”を生むことに陥ってしまった。一例を上げれば筍反、定寸の短刀を来国俊の典型かつ日本刀の短刀の典型としたが、それらを見ると先の伏さった姿(筍反)に鋩子の返りの長いのを来国俊の掟などというデッチ上げの見所を喧伝した人達(特に戦後に多い)が混乱と虚偽に拍車をかけた結果、それらの殆どが?のあるものである。現在、来国俊の在銘短刀を見ると銘に問題のあるのが極めて多く、仮に銘が良くても刃文に問題があるものが数多くある。つまり来国俊の正真在銘の短刀などは決して多くはないのであり、*況や、”来国光”、”来国次”、”来国長”等もしかり三条、五条、綾小路なども日本刀の中では、さらにさらに稀である。こうした点を公平かつ正確に判断するならば、日本刀の中で”来”といえども単なる一部族であり備前物から見れば小数派としか考えられないのである。*(いわんや)

但し、技術的に拙いという事ではなく、現存数という点からであるので誤解はしないように願いたい。勿論、刀(古刀)の本場物は備前のみであるという点は、その現存数からも誰も否定できないものなのである。これについては備前伝の項を参照して頂きたい。また来派も南北朝頃に至っては殆ど刀工がおらないのであり、室町期には”来”?とされる”信国派”がいるが決して本場物といえるだけの条件は備えていない。

ここまで述べてくると残りの三条、五条、綾小路派についても述べておかないと片手落ちとなる。三条派については”三日月宗近”以外に全くその作例がないに等しいが、その”三日月”にしても刀銘であり太刀銘ではない。しかも”宗近”ではなく”三条”という銘のみで、その銘字にも力がなく異様である事を茲に指摘しておきたい。五条については”国永”、”兼永”銘の太刀(国指定)が有名であるが、その現存数は数振りに満たないかもしれない。綾小路は”定利”に現存があるが、いかんせん日本刀の中では希少なる現存数である。粟田口派については”吉光”が一番多くあるとされるが、『埋忠銘鑑(押型)』の注記にもあるように昔から偽銘も多くあり日本刀の中での現存数は決して多くはなく、厳密に言えば、かなり少ないものといえる。他の刀工について言うなら吉光以上の現存数があるとの確信は持てない。また、現在までに”三条吉家”や”綾小路定吉”などに代表される如く、他国の刀工と同銘異人説もある事でもあり、仲々に流派を断定できないもので京という古い都の日本刀という事で珍重されたであろう結果、『日本刀銘鑑』に幽霊刀工名が羅列されるという悪循環を呈してしまっている。

以上のように山城伝は”京伝”もしくは実質的には”来伝”といっても過言ではない事を認識して欲しい。さらに、本阿弥家がやむを得ず日本刀について主張し続けてきたものが、まさに”タテマエ”そのものであり、恐らく “本音”は別にあると私は確信している。

蛇足になるが、数百年に亘る本阿弥家の巧妙なる日本刀についての”タテマエ”を表面的にのみ鵜呑みにした揚句、盛んに本阿弥家を批判攻撃した人々が戦後になり、本阿弥家の”タテマエ”以下の所業、つまり無銘極めの “来”、”粟田口”等の濫造を為したという事実を、現在の刀剣界は厳しく受け止めるべきであろう。尚、長谷部一派を京とする通説には根拠がなく、ここでは取り上げなかった。

(文責 中原 信夫)