3. 大和伝について

今日、日本刀の鑑定法の基本とされているのに本阿彌家の五ヶ伝鑑定法があるが、その一つ大和伝について述べておきたい。そもそもこの五ヶ伝なる鑑定法が真に体系化完成させたのが本阿彌光遜で明治末頃~大正初期頃である。つまりは無銘の刀を極めるのに、この五ヶ伝を最大のタテに取ったのであり、八百年以上も前からの鑑定法ではありません。従って五ヶ伝の 一つでもあり、日本刀でも一番古い生産地とされた大和国(奈良県)をその一つに本阿彌光遜が加えただけであり、端的にいえば 強制附与の感がないでもない。奈良県は最古の都でもあり、当然古来から刀工がいなければならなかった(需要があった)筈である。現に大和五派と呼ばれる千手院、当麻、尻懸、保昌、手掻一派がいた事も事実でありますが、現存刀(在銘正真)からいいますと、極端に少ないのであり、先ほど強制附与といいました理由の最大のものであります。

*大和の刀工の現存刀が少ない理由?

何百年以上の前のことですから推測ではありますが、当時から日本刀の製作本数が少なかったと考えるのが妥当であります。当時から少ないのですから現在においては、なお希少という事であります。さて巷間、大和の刀工は各寺院に従属していたために無銘で実用に供したという説が広く流布されていますが、これも説得力に欠けるもので、刀工が作ったのを無銘でとなるとそれはあまり上品質のものではなかったとも考えられます。僧兵が日常使うものだから数物でもよいとなると、大和各派は数物打をしていたという事になります。そのようなものを我々が大和伝として鑑定が出来得るでしょうか。どうしても矛盾を内包しています。でありますから、日本刀の五ヶ伝に大和伝を加えたのには別の意図があったとしか思われません。

*日本刀の本場とは?

刀剣有史以来江戸時代初期にわたる何百年間、備前国(岡山県、殊に長船)は圧倒的に多くの日本刀を産出していますし、年紀も多くみられます。恐らく古刀期の日本刀の七割以上は備前物ということも断言出来得るのであり、日本刀即備前としても良い程であります。備前物に比べれば大和、山城(京)、相州は微々たる現存数しかないのであります。

*大和に刀が少ない理由?

日本刀を作るには膨大な木炭と玉鋼を必要としますが、大和はそのいづれにも不足しています。木炭は吉野山地がありますから少しは供給できたとしても、玉鋼は無理ですから、他国から輸送しなければなりません。勿論、小規模の野タタラによる和鋼は生産しても少量で大量とはいきません。同様に京の来、粟田口、相州鎌倉鍛冶にも同じ条件がついてくる筈です。その点、備前は広大な中国山脈の木炭と砂鉄(良質)と吉井川の水運を背景にしたものであったのですから、当然に刀剣王国備前が長く続いたという事が考えられます。又、瀬戸内海という大動脈を利用すればこれ程の流通手段に恵まれた所はない筈です。

*大和の刀をどのように捉えるか?

前述のように現存刀が少ないからといって品質的に劣っているということではありません。国指定などがありますから名刀でありますが、いかんせん無責任な無銘極めが氾濫しています点が、大和の刀をレベルダウンしているように思わせているのであります。現存刀(在銘正真)が少ないのに、よくも簡単に鑑定出来るものであります。無銘の鑑定は在銘正真物を基本にしていく外にないのですから、当時から現存刀が少ないのに・・・・・・・・・・。まさに神技としかいいようがありません。但、前述の大和の刀は鎌倉、南北朝頃までの範囲でありまして、室町期、ことに中期以降はこの限りではありません。  (文責 中原 信夫)