鬼鶴の系譜 敗戦編 第一回

鬼鶴の系譜 敗戦編 第一回 森 雅裕

 昭和二〇年。「戦争が終わるらしい」という情報が厚木三〇二空にもたらされたのは八月十一日の夜である。日本はポツダム宣言に対して、まだ条件付きにこだわってはいたが、これを受諾した旨の米国海外放送が横須賀の七一航戦司令部で傍受され、また前日の御前会議の模様も伝わっており、厚木航空隊の小園安名司令は戦争継続を各方面に働きかけ、奔走していた。厚木の幹部や士官の一部はこれを知っていたが、末端の隊員に情報は聞こえてこない。十三日にも押し寄せる米軍艦載機と交戦しているのである。

 母里友弥上飛曹は十四日になって、地下壕の下士官居住区で「終戦」の予告を聞いた。帝都防衛をになう厚木航空隊もこの年の春以降は押し寄せる米軍機の質と量に対抗できず、迎撃どころか退避することが多くなっていた。嫌な予感はしていたが、来たるべきは本土決戦であって、終戦だとは思わなかった。

 この日、日本政府は条件付き降伏を断念し、無条件降伏が決定した。友弥は政府の思惑など与り知らないが、死んでいった幾多の戦友を思うと、やりきれなかった。一体、何のための死だったのか。

 町に出れば、増え続ける戦災孤児を目のあたりにする。家や家族を失った民間人への責任は果たさぬまま、この軍隊は解散するのか。申し訳なさとくやしさで、絶望的な気分となった。何よりも、今日まで信じてきた価値観を否定されたという喪失感が大きかった。

 隊員たちは誰も同様で、ヤケ酒をあおって、この夜を過ごした。

 

 

 十五日の早朝。終戦のはずであるが、米軍艦載機の大群が関東へ襲来した。

「ぎりぎりまで日本を叩いておこうというのか。意地汚ない奴らだ」

 厚木の隊員たちは憤り、わずか十二機でこれを迎撃した。

「これが最後になるかも知れんぞ」

「上がったらもう降りてくるのが嫌になるなあ」

 そんなことをいい、彼らは蟷螂の斧をふるった。

 友弥は照準器に入るF6Fに手当たり次第の銃弾を浴びせたが、戦果など確認している余裕はなく、敵に囲まれぬよう回避運動に必死だった。他機も同様で、戦果を報告する者もあったが、どれも不確実であり、仲間は三機が帰還しなかった。

 そして正午。中央指揮所の号令台前へ総員集合がかかり、炎天下で玉音放送を聞いた。厚木には五千人以上の隊員がいるが、集まったのはおよそ三千人。他の者はそれぞれの持ち場に整列した。隊員の中には終戦を知らず、放送も聞き取れず、陛下から戦争継続を鼓舞されたと勘違いする者もいたが、放送後に内容が波のように広がると、怒りや悲しみや戸惑いの叫びがあちこちからあがった。

 その場を離れられずにいる隊員たちの前に小園安名司令が現れ、今後は自衛のための戦争継続となる、と宣言した。小園はすでに降伏反対の声明を全海軍に向けて緊急特電で発信していた。

「私と志を同じくし、あくまでも戦い続けるという者はとどまれ。しからざる者は自由に隊を離れて帰郷してよろしい。私は必勝を信じて最後まで戦う覚悟である」

 絶大な人望を集めている司令の訓示に、隊員たちは沸き立った。戦争をまだ続けたいというより、何かしら目的が欲しかったのである。

 母里友弥の胸中も同様だ。司令や仲間が徹底抗戦だと叫ぶなら、彼らを裏切ることはできない。戦争に負けても、日本軍人の意地を見せたい。大体、軍隊をやめたら、どう生きていくのかもわからなかった。

 搭乗員は志願兵であり、きびしい選抜と訓練をくぐってきた人材である。若者の最高の職業と信じられてきた。死ぬのを怖いと思う戦闘機乗りなどいない。その誇りある身分を取り上げられて、他の生き方をしろといわれても、途方に暮れるばかりである。

 命令違反になるのでは……とは考えなかった。終戦の詔勅は天皇の本意ではなく、君側の奸どもによる陰謀だと感じていた。小園司令以下、厚木の隊員は高級軍官僚など「ダラ幹」と呼んで、信用していなかった。

 小園安名大佐は日中戦争の初期には漢口爆撃を敢行し、太平洋の戦線では台南空を率いてフィリピン、ラバウルで激闘を繰り広げてきた海軍屈指の指揮官である。大型機攻撃のための斜め銃に固執して周囲を辟易させ、会議は「衆愚の意見が通るもの」と欠席するなど奇矯な言動で、海軍上層部とは対立することが多かったが、部下からは「オヤジ」と愛されていた。実の父親を持たない友弥には、その「オヤジ」からまだ離れたくない、という思いもあった。

 滑走路ではエンジン音が絶えなかった。政府施設上空での示威飛行のため東京へ飛ぶ者もいるし、他の基地に協力を求める連絡機も飛んでいる。地上では、籠城にそなえた物資をかき集めるためにトラックが次々と出発していく。

 厚木基地はそれ自体が軍需工場、武器庫となっている。眠っていた機関銃や小銃が持ち出され、兵が総出で手入れを始めた。隊の正門には砲座が据えられ、基地の目と耳である通信塔の周囲は厳戒態勢を固めている。

「抗戦を訴える伝単(ビラ)を空から撒く」

 という話も伝え聞いた。懸命にガリ版刷りしている者たちもいるらしい。が、友弥には誘いがかからないので、ぼんやりと一日を過ごした。

 夕刻、第七一航空戦隊司令官・山本栄大佐が説得のために厚木へやってきたが、隊員たちから冷笑されただけであった。厚木三〇二空は七一航戦の隷下にあるので、山本は小園の直属の上官ということになるのだが、不遇をかこっていた山本を今の役職に推挙したのは小園なのである。実戦経験では小園がはるかに上であり、山本がいかに言葉を尽くそうとも、まったく説得力がなかった。

 かつて山本はフィリピンの二〇一空司令であり、昭和十九年十月に第一次神風特攻隊を送り出した人物である。「御国のため」と若者たちを死地へ向かわせながら、今さら戦争をやめろなどと、どのツラさげていえるのか。厚木の隊員たちは憤り、

「かまわんから斬ってしまえ」

 と、軍刀の柄を叩く士官もいた。

 

 

 翌一六日の朝、海軍総隊司令部参謀副長・菊池朝三少将が厚木へ現れ、決起の翻意を促したが、小園司令は応じなかった。さらに午後には第三航空艦隊司令長官・寺岡◯平中将が将官旗を立てて乗り込んできたが、鹿児島出身の小園は「島津軍法に、隊将の首級を敵に渡すべからず、この仇を報ずること能わぬ時はことごとく討死せよ、とある」と、撥ねつけた。これによって、厚木の決起は「反乱」となり、戦後の軍法会議で「抗命罪」の烙印を押されるのである。

 上層部の動きなど知らぬ母里友弥は、飛行場の様子を見回り、指揮所の近くで足を留めた。吹き流し塔に見慣れぬ旗が揚がっていた。手描きらしい菊水旗である。

「わが厚木航空隊は湊川の楠木正成というわけだ」

 艦爆隊の岩戸良治中尉が夏空を仰ぎながら、いった。自負であり自慢でもあるだろう。しかし、友弥は自虐趣味だと感じる。楠木正成の戦いの最後はどうなったか。正成は勝利の象徴ではない。

「楠木正成の旗幟は特攻隊の基地ではお馴染みですよ。菊水に非理法権天……」

 友弥の声にはいささか嫌味が混じったかも知れない。

 士官と下士官は居住区、食堂などの生活空間からして隔絶しており、親しく言葉を交わすことは少ない。しかし、友弥は異様な器用さがあって、暇を見ては小さな鬼の木像を彫るのだが、それをマスコットとして欲しがる士官が続出し、差し上げてきたので、彼らは気安く声をかけてくる。

 岩戸は五千人以上が大量採用された第13期予備学生出身で、甲種飛行予科練習生10期の友弥の方が、戦歴は上である。

「母里。お前は『湊川』という言葉で思い出すことがあるだろう」

「そうですなあ」

 三月末、当時、鹿児島の笠之原二〇三空にいた友弥は鹿屋基地を発進した「神雷部隊」の掩護任務についた。五十五機の零戦が守る十八機の一式陸攻は異様な物体を懸吊していた。大型魚雷にも見えた。これが人間爆弾「桜花」の初陣である。

 しかし、かき集められた零戦の多くは整備不良で途中から引き返し、随伴したのはわずか三十機。

 米軍から「ワンショットライター」と蔑称されるほど脆弱な陸攻が重量二トン以上の桜花を抱いてヨタヨタと飛んでいくのだ。これをレーダーで探知した米軍戦闘機の大群が待ち構えている。結果は明らかだった。神雷部隊の陸攻と桜花は敵機動部隊に近づくことさえできずに全滅。掩護の零戦隊も十機が失われ、戦死者は百六十名にも達した。

 指揮官の野中五郎少佐はこうなることを予測し、桜花の実戦投入には「国賊とののしられても、この自殺行為を司令部に断念させたい」と反対していたが、出撃命令が下ると「湊川だよ」の一言を残して機上の人となった。

 楠木正成が勝てる見込みのない湊川合戦にのぞみ、足利尊氏の大軍を相手に全滅した故事と神雷部隊の運命を重ねたのである。神雷部隊は楠木正成が用いたという「非理法権天」の旗幟を指揮所にはためかせていた。「非は理に勝たず、理は法に勝たず、法は権に勝たず、権は天に勝たず」……天とはすなわち天皇という尊皇思想に結びつけられている。しかし、これを楠木正成の旗幟とするのは後世の創作だ。罰当たりな危険思想だが、友弥はそのくらいにしか思っていない。

 あの時、充分な掩護戦闘機もつけずに出撃を命じた第五航空艦隊司令長官・宇垣纏中将もまた八月十五日の午後、部下を率いて大分基地から沖縄へ飛んだ。「敵空母見ユ。必中突入ス」の無電を最後に消息不明となっている。特攻を命じた者が敗戦後に生き残るわけにはいかない。

「宇垣中将は彗星艦爆で出撃されたそうだ。たとえ命令違反でも同行するという部下が続出して、十一機もの編隊になったらしい」

 岩戸は誇らしげにいった。この男も彗星の搭乗員である。宇垣の部下にシンパシーを感じるのだろう。

 友弥は零戦乗りである。戦闘機は一人乗りだが、艦爆なら複数が乗り込んだだろう。一体、何人が死んだのか。そんなことを考えた。二十名を超えるだろう。しかし、悲惨だとは感じないし、無意味とも思わない。

 友弥と同期の甲飛10期からは多くの特攻隊員が出ている。友弥もまたフィリピンや台湾を転戦するうち、特攻に行けと命じられ、覚悟を決めたことがあるが、ぎりぎりのところで内地帰還となって、命拾いしていた。だが、いずれ自分も死ぬのだと考えていた。

 宇垣の特攻を知らされた小沢治三郎海軍総隊司令長官は、

「玉音放送で大命を承知しながら、部下を道連れにするとは以ての外である。自決するなら一人でやれ」

 と激怒したというが、これはむしろ戦後の平和日本の価値観であって、友弥も他の搭乗員も国のために死ぬのが最大の美徳と信じられた時代に生まれた。宇垣中将の部下たちは自ら志願、熱望して最後の特攻を行ったのである。

 友弥が多少でも感傷的になったとすれば、一人一機の棺桶を与えてやりたかったなア、という口惜しさにも似た同情によるものだった。同乗者の中には操縦できない者もいただろうが、それより何より、おそらくは稼働機をかき集めた結果が十一機だったのだろう。棺桶さえ不足していたのである。

「野中一家」全滅の後も神雷部隊の桜花作戦は続き、人員も機材もひたすら消耗したが、新聞各紙は「一発轟沈」「皇軍新兵器」と礼賛した。

 そして、九州防空のため、笠之原には厚木の零戦隊の一部が派遣され、また厚木、岩国、大村の雷電隊で鹿屋に編成された「竜巻部隊」も鹿屋に近接する笠之原を優先的に使ったので、友弥の二〇三空は居場所がなくなった。二〇三空は岩国に移って、B-29に体当たりする空中特攻隊に編成されるという話もあったが、その前に彼は厚木三〇二空へ異動となったのである。竜巻部隊の中にかつて南方で一緒に戦った上官がいて、引き抜いてくれたのだ。その上官も五月末の横浜空襲の迎撃戦で戦死していた。

 小園安名司令といえば、歴戦の指揮官で、部下には情け深いが、海軍上層部に喧嘩を売りまくる「奇人」であり、その彼が率いる厚木三〇二空は他の部隊でもてあました曲者が厄介払いとばかりに送り込まれる傾向があった。他の基地で温存されていた戦闘機を盗み出し、厚木の隊名符号を入れてしまう搭乗員もいたくらいだ。友弥もまた反骨心が強く、町中で憲兵や他の部隊の者と殴り合いの喧嘩をやり、決して評判のいい下士官ではなかった。

「しかし、岩戸中尉。湊川の合戦は籠城戦ではありませんよ。厚木基地が海軍最大の航空基地とはいえ、籠城を続けるには限界があります。ここには五千人以上の隊員がいるのですから、打って出て、官庁や放送局を襲撃、占拠するのが定石というものでは……?」

「オヤジ(小園)はそのつもりで計画を練っていたようだが……マラリアが再発して、指揮できない」

 南方戦線在任中に感染したマラリアが小園の持病だった。しかし、この大切な時に……。前途多難が予感された。

「それにな、陸軍の反乱部隊が宮城と放送局を一旦は占拠したが、すでに鎮圧され、どこも警戒厳重だ。そんなところを襲えば、日本人同士で撃ち合いになる」

「なるほど。ぜひとも敢行したい作戦じゃありませんね」

 となると、各地の有力な陸海軍部隊が決起しない限り、厚木だけが頑張っても、鎮圧されるのは時間の問題ではないか。

 しかし、それでもいいのかな、と友弥は思った。日本人は「滅びの美学」が好きだ。決して他人事ではないのだが、友弥はのんきに構えている。これが歴史というものなら、観察してやろうとも考えた。

 この日の夕刻、海軍省は小園を罷免、横須賀鎮守府付に更迭して指揮権を奪い、山本栄大佐を後任の厚木三〇二空司令に指名した。山本は第七一航空戦隊司令官と兼務となったが、むろんのこと、小園はこの人事を無視し、厚木に居座っていた。

 

 

 十七日。

 厚木基地の空気は抗戦派が支配的だが、どっちつかずの者もいないわけではない。一部の隊員は軟禁状態にもなっていた。

「母里。ビラ撒きだ」

 早朝、ようやく声がかかった。拒否すれば、友弥も裏切者である。もとより、拒否する気はない。抗戦派に賛同するというより、単純に空を飛びたかったからである。奪われかけている翼だった。

 支度をしていると「大西次長が自決された」と情報がもたらされた。軍令部次長は大西瀧治郎中将である。昭和十九年十月には、第一航空艦隊司令長官就任と同時に最初の神風特別攻撃隊を創設した「特攻の父」だった。

 厚木の小園司令は大西中将を尊敬し、親交があった。終戦にあたり、中将もまたポツダム宣言受諾を拒否して継戦に奔走したが、政府決定が覆えるわけもなく、十五日深夜に渋谷の次長官舎で割腹したのである。

「私と握手して死んでいった特攻隊員に謝罪のため、長く苦しんで死にたい」と治療も介護も拒否し、十六日夕刻に絶命した。

「今日、落合の火葬場へ運ばれるらしい。空からお見送りしよう」

 僚機の戸ノ崎上飛曹、富田一飛曹が地図を広げながら、いった。

「ビラ撒きのついでだ。三機編隊で行くぞ」

 自転車で運ばれてきた伝単の束を零戦の狭い操縦席に押し込んだ。

「国民諸子ニ告グ 帝国海軍航空隊」と題した文面は「赤魔ノ巧妙ナル謀略ニ翻弄サレ必勝ノ信念ヲ失ヒタル重臣閣僚共カ上聖明ヲ覆ヒ奉リ……」で始まり「今コソ一億総蹶起ノ秋ナリ」と結んでいた。

 伝単は他にも何種類かあり、「神州不滅、終戦放送は偽勅、だまされるな」あるいは「独逸ノ惨状ヲ想起セヨ 婦女子ハ計画的ニ姦セラレ民族ノ血ノ純潔ハ破壊セラレントシツツアリ」と訴えており、名文とはいえないが、必死の檄文であった。

 この伝単を積んだ三機は東京を目指した。大西次長を見送ったあと、それぞれ撒布を分担する各地へ飛ぶ予定だったが、いくらも飛ばないうちに戸ノ崎と富田は自分の機首を指差しながら、手を振った。エンジン不調である。機体の損耗が激しい上に燃料も最悪だから、不調の機が多いのである。彼ら二機は厚木へ引き返していった。

 友弥の零戦は不思議なほど快調だ。単機、渋谷の軍令部次長官舎を目指す。大西次長を悼む気持ちが強いわけではないが、仲間が脱落してしまったら、自分がやるしかない。律義な性格なのである。

 大西瀧治郎が生みの親となった第一次神風特攻隊の隊員のほとんどは友弥と同期の甲飛10期生だった。熟練搭乗員の多くが戦死した戦争後期、若年ながら海軍航空隊の中核となった期である。その友弥が空から「特攻の父」を見送るにあたり、

「文句の一つもいってやるか」

 誰にいうともなく、声に出した。応えるのは愛機のエンジン音である。

 空から見る東京は色を失っている。五月に大きな空襲を受けた渋谷も焼け跡が広がり、灰色の世界だ。焼け残ったコンクリートの建物
だけが点在している。これが、友弥たちが守りきれなかった帝都だった。

 渋谷駅に近い南平台が眼下に見えた。風防を開け、あれが官舎だろうと見当をつけたあたりの上空を旋回していると、その建物の周囲に集まった連中がこちらを見上げながら、さかんに一方を指し示している。その方向へ飛ぶと、車列が見えた。大西次長の棺をのせた車だろうか。

 低空で追い越し、機体を大きく傾けて旋回。敬礼して、翼を振りながら、

「ばかやろおおおおおお!」

 あらん限りの大声を投げた。誰に向けたものでもなく、むろん聞いた者もいない。地上の車列は何事もなく走り続けていた。

 友弥のビラ撒きの分担は東海方面である。高度を上げ、機首を西へ向けた。

 特攻の生みの親とされる大西中将だが、彼とて軍令部の決定に従わざるを得ない組織の一員だっただろう。さりとて、同情する必要はない。搭乗員が使い捨てにされるのを覚悟しているように、指揮官は恨みや憎しみを買うことを覚悟しているはずだ。

 甲飛10期が教育期間を終えて部隊配属されたのは昭和十八年末である。彼らには勝ち戦の経験がなかった。個々の兵士は身命をなげうって戦った。負けたのは、ブザマな戦争をやった指導者の責任だ。友弥は敗戦の喪失感を指導者への怒りに置き換えることで、束の間ではあるが、血が熱くなる生気を取り戻した。地上に降りれば、またドンヨリした気分に落ち込むだろうが。

 浜松、名古屋で伝単を撒き散らし、帰途についた。

 任務を終えても名残惜しかった。また飛べる機会があるかどうかはわからない。

「帰りたくねぇぞお」

 独りごちた。エンジンは彼の気持ちを知ってか知らずか、屈託なく回り続け、機体は蒼天を上昇している。大西次長の葬送の上空で宙返りでもしてやればよかっただろうか。上層部に知れたら激怒されるのだろうか。

 とりとめのないことを考えながらも、死角を作らぬよう、左右に緩旋回しながら高度を上げる習慣が抜けない。

 高度五千五百を越えて、酸素マスクを装着する。エンジンを冷やすため、速度を落として旋回。頭上は輝く青一色となり、眼下には白い雲が浮かんでいる。この世は神の創造だと思わざるを得ない壮絶な光景だ。そこに今、動いているのは自分一人だった。

 さらに上を目指す。地上に居場所がないなら、空の限界まで行ってみたい気分だった。かつて、B-29にまったく追いつけなかった高度一万メートル。そこはもう人間社会とは別世界だ。世俗を忘れるあの感動をもう一度体験したかった。しかし、その高度に達するには三十分以上かかる。その前にエンジンがあえぎ始めた。

 高度八千メートルを越えた。上昇力は極端に落ちたが、群青の空の下に日本の国土が横たわっている。広いのか狭いのか、わからない祖国だが、

「人間はちっちぇなア、おい」

 それだけは実感できた。息も絶え絶えのエンジンが相槌を打つ。人間もつらくなってくる。高度千メートルごとに気温は六℃下がる。故障の多い電熱被服など最初から着る気はない。この酷寒に耐えて、戦闘機乗りは戦ってきた。エンジンの暖気を操縦席へ引き入れる仕組みが一応はついており、搭乗員は厚着しているし、マフラーも巻いている。とはいえ、凍死しそうだが、それならそれでいいような気がした。

 ようやく、高度一万メートルに到達した。日本海は巨大な湖のように広がり、その向こうに朝鮮半島が見え、富士山は真下にある。この光景を目に焼きつける。

 エンジンが帰りを促すように咳き込んだ。なおも上昇を続けていたが、高度計の針はもうほとんど動かず、溺れかけた魚が水面に浮いている感じだ。燃料も残っていない。

 ふらつきながら旋回する。舵が鈍い。愛機の機首をゆっくりと下げた。高度が下がるにつれ、エンジンが生気を取り戻す。凍死なんかするのは、やめた。

「よし。帰ろうぜ」

 友弥はエンジン音、風切音と戦いながら、思いつく限りの歌をがなり立て、声を枯らして厚木へ帰還した。そして、これが母里友弥上飛曹の最後の飛行となった。