64. 偽物について(その十六)  清麿の偽物

今回は前回に続いて(4)(42)の清麿の嘉永三年二月日の年紀について検証していきたいと思います。

では(42)-2の「嘉」をみて下さい。第1画目の横棒、第9画目の横棒のヌキは(4)にくらべかなり強く大仰になっています。また、第7・8画目のA図参照「ヽ丿」の各々の先端は第9画目の横棒をはっきりと突き抜けていますが、こうした傾向は(4)にはなく、そして、第10画・11画目の「力」が「刀」になっていまして、(42)-2は端正さとバランスを欠いて、銘字として態をなしていません。更に、(42)-2の「永」ですが第2画目のカギ状の縦棒はかなり縦長になっていまして、(4)とは明らかに相違した字体です。

次に、(42)-2の「三」ですが第3画目の横棒のヌキは一見すると違和感はない様ですが、(4)のそれとくらべると、右の方へやや大仰にひっぱりすぎています。さらに、(42)-2の「年」では第2画目と第5画目の横棒のヌキが強くありますが、(4)ではサラリとスマートにヌキを使っています。しかも、6画目の縦棒は(42)-2では太く短く左へやや傾斜していまして、銘字としてはズングリとして、(4)とは対照的であります。また、(42)-2の「二」では第2画目の横棒のヌキがかなり強く大仰になっていまして、(4)のそれとは相違しているのは明白です。

次に「日」ですが第1画目の縦棒のヌキは(42)-2では力強く入っていますが、(4)のそれはサラリと流しています。また、(42)-2の「永」の第2画目の最後の左側へのハネ(跳)、そして「月」と「日」の第2画目の縦棒の最後の左側への跳は、かなり大きく強く強調しすぎでありまして、明らかに三角形状となっていますが、(4)では小さく細く跳ねているのも相違しています。この跳が大仰で、強いのは「源」「清」「麿」でも前回の(42)-1にみられます。殊に「源」と「清」では際立って目立つ程であります。

(42)については他にも?と思える点がありますが、それは長年の私の「勘」ともいうべきものかも知れず、文章にするのは難しいものでありますので、一応読者の目で見比べて下されば今回指摘した点も含めて、その差異を明らかに了解・理解して頂けるものを掲出し述べた次第であります。

この(42)の刀は現存するのかどうかは分かりませんが、清麿に惚れた優れた研究者でもあった藤代義雄氏の感覚には、私はこれに関してはちょっと理解が出来ません。仮にこの(42)が出現してくれば、「刀剣図録」所載として、また藤代義雄氏の眼に叶ったものとして、称賛される可能性がありますが、(4)の刀が現存していますし、その銘字に至っては前述の様に比べるべくもなく、(4)が正真であります。

(4)の地刃、殊に刃文の匂口には全く崩(くずれ)や叢(むら)がないもので、さすがにこの(4)は正真の清麿中、上出来と称すべき出来であると存じます。某書に(4)を”おだやかな出来映(ばえ)”との説明がありますが、刃文に叢沸がバラバラとついて匂口が崩れたものが、覇気のある刃文や名刀などと解説されては全く勘違いもいい所です。崩れた匂口のある刀は名刀ではありません。清麿の刀には(4)の様な作刀があるから、新々刀での名刀工と呼ばれるに至ったのでありまして、誰々が称賛したから名刀工となったのではない。前提条件と結論を逆転して捉えてはいけません。この一番簡単にして基本的な判断を、他人に委ねるから悲喜劇が繰り返される事を肝に銘じて欲しい。

最後に、清麿の銘字にはアタリ(鑚)のあるものは正行時代(天保十一年迄)で、それ以後にはないと思われること。それ以後は、最初からスッとやや細く入り、最後も大仰な目立った強いヌキはしないで、スッと右へサッと流し、極めて端正かつ謹直な上手な銘字となることを理解して頂きたいと存じます。因みに、こうした特徴は弟子の栗原信秀に一番良く受け継がれている様な気がします。

(平成二十七年二月 文責 中原 信夫)