47. 刀剣・日本刀中心の鑑別法 再刃編(その十一 国広一派の水影)

今回は前々回の本欄で少し触れたハバキ元から出ている水影と称されている所作(現象)について補足をしておきたい。

昭和37年刊の「堀川国広とその弟子」の中で以下の記述がある。ちょっと長くなるが引用してみると「国広の大部分の作刀及び一派の作の大部分に、区際に一種の水影のような映り(移)が大きく立つことである。これを再刃による水影と誤解されないように、生ぶ茎(中心)は生ぶ茎ながら、僅かに区を送ったと思われるものがある。・・・<中略>・・・別のことであるが、肥前忠吉(初代)及びその一派にもこの水影様の映りが立つもので、肥前刀の場合は、これを消すために”やきがね”をあてたと思われ、殆ど焼出しの明瞭なものがない。焼出しの明瞭なものには必ず水影様の映りがあるということになる。これは鑑刀上最も注意して区別すべきで、簡単早計に再刃などと考えてはならぬところであろう。」

この文章はこの本の著者・伊勢寅彦氏が書いたのではなく、本論として故佐藤貫一氏が書いたものである。茲において水影は再刃と判断する重要な所作として扱われてはいるが、この点について言うなら、水影という明瞭な定義がない事。そして恐らく佐藤貫一氏をはじめ、殆どの人達も移(映り)との明瞭な区別をしていないという点が指摘される。

つまり、中途半端な意味不明確な解説を鵜呑みにして盲信した戦後の刀剣界であった。逆に、水影という幽霊のような厄介な名称を後生大事に振りかざさなくとも、他の見所で再刃は十分に鑑別出来る事を、本欄では順次述べてきたのであった。

因みに、右の文章中に”焼出”とある名称について誤解をさける為に説明表示しておくが、一般に“京焼出”(1)図、”大阪焼出”(2)図といわれる焼出ではなく、(3)図において点線で丸く囲んだ所の刃文を佐藤氏は”焼出”といっていると思われるから、京焼出、大阪焼出の事ではない。

さて、移を”再刃による水影と誤解されないように”という佐藤氏の文章(前掲)であるが、恐らく移は古刀のみに限定のものであるから、新刀期の国広にあるとなれば、少し厄介であるかのような考え方が潜在的にあると思われる。更に、室町末期から江戸初期にかけての日本刀を、勝手に確たる根拠もなく慶長前後で古刀、新刀と別けたから起きた不合理・不手際もあって、新刀期の地方作、例えば豊後國高田の作刀に移はよくある所作である。勿論、古刀期の平高田には移が出るのは珍しい事ではないのであって、平高田と作位的に同格である堀川国広の前期作(京都に定住する前)に、移が出ても何ら不思議はないのである。初代の肥前忠吉の刀にも移(棒状)が鮮明に出た例(五字忠吉で南無観世音菩薩と切銘)が東京国立博物館にある。

前掲の佐藤氏の文章で「肥前刀の場合は、これ(水影様の映り)を消すために”やきがね”をあてたと思われ」とあるが、これと同意の解説は現在に至る迄、諸書で述べられているが、明らかに間違っている。”やきがね”とはたぶん、銅製のもので、焼入後の日本刀の反(そり)を修正する際に赤熱して使用する器具と同じ形式の物であろうが、そんな事をいくらやっても、刃区の上部の移は消えない。下手をすれば、移は消えないがハバキ元の上の方まで刃文が消える可能性が大である。但、確かに刃区下の刃文が不明瞭になっていたり、消えていたりしたものが多くあるが、これは肥前刀に限ったものではなく、ある程度の古い刀と、ある程度に研減った刀には殆どその様な傾向がある。これは何らかの理由で刃区附近、殊に刃先の区角辺が欠けたため(無くなったため)に新しく刃区を作らなければならなくなる。(4)図参照。その時、刃区下に刃文が厳然として匂口がしっかりと残っていれば、その辺の刃部は剛くて加工が出来ない。その剛さを解消するために少し熱を加えてやっと鑢がかかる程度(完全に刃文が消える直前)に戻すのである。これで、刃区下の中心の刃方を削って加工しやすく出来るのである。従って、区送り(まちおくり)をする時や、磨上を施す時はこうした処理を慎重かつ完全にしなければならなくなる。(4)図では刃区辺から下に刃文(匂口)がなくなっている。(1)〜(3)図の同じ所と相違している点に気をつけて下さい。

以上のように、移や水影とされるものに対して、正確で合理的な考え方をもって頂かないといけない。焼落(やきおとし)の所から移状になって斜目に出た所作は再刃を疑う十分な所作であり、それを水影の典型とするべきであるが、それと同時に確認する所作が中心にあり、刀身にもある事は既述済である。加えていうならば、(4)図の基本的考え方は俗にいう”生刃(うぶば)”に密接に関連する事であるが、(3)図から(4)図へ変化する過程を択えて、刀の真偽や年代をある程度まで鑑別出来る事も可能な事でもあるので、次回の本欄で述べさせて頂く。

(平成二十五年 五月 文責 中原 信夫)