35. 太刀二題

 刀剣社会では権威者とされている人の言った言葉や表現が恰も金科玉条の如き定説とされ、それを多くの人達が無意識に引用するが果たしてそれで良いのかという事である。恐らく、権威者とされる人の言葉や表現が多くの人達に呪文の様に先入観念となり、人々を縛ってしまう。そうした一つに「雉子股(きじもも)がきりりと引き締まり、続いて無限な力を秘めた静謐で息の長い矯めた線から鋒(きっさき)へかけて張りのある美麗な反り、鉄線描よりさらに厳しく、それでいて何とも優美な平等院の廂(ひさし)の反りや羽ばたく鶴の翼のように軽やかな曲線は美の極を現し・・」と述べた文章、これは何の説明かと言うと、名物・三日月宗近(国宝)の姿の説明である。

 この文章は女性によって書かれたものであるが、この文章の基になったのは権威者とされる人がある対談上で「最初に見た時に心打たれ、今でも感心するのはやはり三日月ですね。(A)あの姿が素晴らしいじゃないですか。これはね、私だけ、つまり刀剣界の人だけが言うんじゃなくて他の古美術しか知らない人に見せても、姿が非常にいいと言いますね。京物のいい所のものの標本でしょうね。」と。
そして又、「一番最初にびっくりしたのは三日月です。ともかく姿がいいんですね。優しくて、気品が高く、いかにも平安時代の雅な感じのするものです。これは刀に余り気のない連中でも、古美術品を扱ってる者なら、たいがいの者はいいと言うんですね。」と述べている。前述の女性はこの二つの文と同工異曲的に述べただけで底に流れる意識は両者に共通している。

 では、三日月宗近について私見を述べることにする。この太刀が平安末期頃の作とすると、今の我々の目に写っている姿は当時のものであろうか。答えは“ノー”である。つまり、何百年の間に研磨によって姿そのものが著しく変形しているのである。物打辺が直刀状態になっているのが一番の証拠である。(B)つまり、物打辺が直刀状態(先反がない)になるのが、平安~鎌倉(初期)の姿と言うなら、現状では姿に変形が無いと言う事を言っている事になる。では、同じ国宝の狐ヶ崎為次(古青江)には先反りがついていて、物打辺は直刀状態でもないし、まして反りが伏さった状態でもない。(D)ならば狐ヶ崎為次は三日月宗近の時代の姿ではないと言う事になり、自己撞着となる。何と言っても製作時の生の姿が一番良いのである。つまり姿の変形の度合いは健全さに比例するもので、最初は全く同じ姿であっても研磨の回数の多少で著しく差が出るのである。但、物打辺が直刀状態にある程、多くの研磨を経た太刀、つまりこれは古い太刀と言うことにつながるだけであって、物打辺が直刀状態になった物が古い姿であると単純かつ短絡的に考えることからボタンの掛け違いが始まっている。何故に以上の点をくどくどと言ったかというと、三日月宗近の姿は変形に変形を繰り返しているものであるにも拘らず、その姿に形容詞を一杯つけて飾り立てるのは物の本質を全く省みず、単なる言葉遊びをして自己満足しているにすぎない。併し、三日月宗近に関しては以上の三つの文に大同小異な内容しか今迄に説明はなく、本当に情けないのである。ここまで書くと天下の国宝にケチをつけるのかと言われると思うが、私は全く間違っていないと思っている。日本刀の権威者であろうが、私のような無名の人間であろうが、真実は一つである。併し、余りにも突飛すぎる話なので、わかりやすく解説しておこう。

 先般、マスコミを賑わした双子の姉妹、“キン”さん“ギン”さんを思い出して欲しい。随分の高齢でお二人共お亡くなりになったが、マスコミに登場された姿は確かに老齢の姿であった。ではあのお二人は、例えば二十歳の頃はあのような老体の姿であったのでしょうか。いや、そうではないでしょう。今の三日月宗近の姿は老体のキンさんギンさんの姿と同じです。しからば老体の姿を口を極めて褒め上げて、若い頃のキンさんギンさんはまずい姿であったのでしょうかね。
また、狐ヶ崎為次は二十代後半か三十代頃と見えるギャルに相当する健全さと 考えて下されば、私の言う理屈はすぐに肯いて頂ける筈。しかし、一番大事なことは変形した姿は全ていけないのかと言えば、答えは“ノー”である。それなりの評価と言うか、多くの研磨によりやっと残された姿は例え変形していても貴重なものであり、又尊ぶべきものである。この点は必ず理解して欲しい。よくぞ残してくれた、よくぞ残ってくれたと言う感覚が、古いものへの正当な評価であり、新しいものが到達しえない次元の良さがある。人間でも、かなり老齢になっても気品の良さを漂わせている人がおられる。この人は若い時はさぞかし・・というケースを想像すれば簡単にわかることでもある。日本刀も同じである。

 さて、次に私はこの三日月宗近を認めた訳ではない。従来の刀剣書に全く触れられていない事を書いておく。反論があれば、是非ご返信を頂きたい。つまり、三日月宗近は太刀銘ではなく刀銘であると言う事、そして“三条”のみ在銘であって、変形の甚だしい中心には鑢目も見えない。(C)前述の女性の文中にある“雉子股がきりりと引き締まり”とはどこを見てもそのカケラさえも見当たらない。しかも、平安~鎌倉時代に刀銘というのはありますかね。備中國の古青江(狐ヶ崎為次はその好例である)にはあるのではないかと言われようが、宗近は古青江ではない。権威者の文では、現に“京物のいい所”といって青江とは言っていない。そして、銘文も“三条”のみであって“宗近”銘はない。他の宗近で三条とのみ切銘した現存の正真の太刀はない。この辺は戦後に新国宝に指定した関係者・権威者はどう説明するのか。私の不可解な点はこうした点であり、是非とも解るような回答が欲しい。伝来が大徳川家であるとか、そういう問題ではないのである。

 ではついでに大徳川家伝来の太刀でもう一つ疑問を提起しておきたい。

 昨年十一月に日刀保の本部定例鑑賞会で鑑定刀に使用された(E)太刀・大原真守であるが、「大原真守」の四字銘は一応いいとしておいて話をすすめる。中心の下部にある二つの目釘孔のいづれかが生孔と一応仮定すれば、約三寸程の磨上となる。押型を見ると現在の刃区よりもまだ少なくとも一寸一分以上の上で刃紋はないのである。この点は解説を書いた日刀保の学芸員に今年三月下旬であるが直接確認した。其の時、私は「どうも刃のない所は焼落に見えるが・・」と言ったら「いいえ焼落ではありません。これは焼(刃紋)がないのです。」との学芸員の真顔での回答であった。私は「どうして焼がないの?」と聞くと、「わかりません。ないのですから・・。」との返事。併し掲載の押型から刃紋の方向をみると現在の刃区の方へ右斜目下方向にむかっているようであるが、若しそうなら生中心の時はかなり上での焼落となり、普通の状態とは考えにくい。いづれにしても、三寸程の磨上をして尚且つ一寸以上も刃紋がないとはこれが正常に磨上た太刀か、果してまた磨上であろうか。この学芸員とは以前に私と磨上について何回か文書をかわした経緯があり、これもいつの日か公開するという約束であるが、この文書の中で学芸員は“磨上の際は中心を火の中に入れて刃紋を戻すという刀工もいる・・”と言う趣旨の内容の文書を私に送ってきた事があり、ひょっとするとこの太刀もそのようにしたので火力をコントロール出来ないで四寸以上も刃紋(焼)が消えたのかなぁとも思っている。又、それをその折に学芸員に話したが、確たる返事はもらえなかった。ついでにこの太刀の生孔が残っていない様に磨上られていたら、刃紋消失の長さはもっと長くなる。因みにこの太刀は重要美術品指定である。世上、“国宝になっている”とか“重美”や“重刀”になっているという言葉を聞くが、この表現は正当ではない。正しくは“国宝にした”であるし、他も同じである。日本刀が勝手に国宝になったのではない。人間が審査をして指定したのであって、審査した人間の眼がおかしければ正当な評価は出来ない。従って、指定した側の責任は大きいと考える。尚、今回引合いに出した二振りについては、私なりの疑問を呈しただけであって、単に悪意のある誹謗中傷でなく純粋に学問的な疑問である事を御理解頂きたい。

(平成二十三年十月 文責 中原 信夫)