18. 信濃守國広小伝(刀剣史上最高の教育者)について

堀川国広は桃山時代を代表する名工であり、又多くの門下生を育てた事でも有名である。弟子には、正弘、国安、在吉、弘幸、国路、国儔、国貞、国助、等が居り堀川一門と言う大きな集団を形成している。

作風は日州古屋での所謂天正打ちでは末関、或は末相州を偲ばせる乱刃がある。だが慶長四年、京一条堀川定住後は相州伝の志津、左文字等に範をとり、作風、銘振り共に一変した。これは、弟子達の代作によるものである事が伺える。

では次に、国広の足跡を詳しく見ていきたい。 国広は日向飫肥の城主である伊東家の家臣であり、父、 国昌は修験者であったと言う。つまり国広の鍛刀技術は敵対する薩摩の波平一派に習う事は考えられず、作刀にも影響は感じられない。むしろ、父の後に続いて山伏となったのだから、九州の英彦山へ行ったのが事実だろう。

修験道に関係のある遺跡が九州の国東半島から大分県一帯にかけて多く存在する。そして英彦山、豊後、日向を通る道には平高田や筑前信国の刀工達がいるので ある。当然、技術交流があったと思われる。そして、現存する刀剣に見る国広の最古の年紀は天正四年であり、銘文に日向国古屋在住とあるのである。

その後、主家の伊東家は天正五年十二月に島津の策略にかかり、豊後国大友宗麟を頼って落ちていった。 国広は伊東家の一族、伊東満所のお伴でこの時、豊後へ行ったと言う。大友宗麟は天正六年、日向へ進軍する。しかし、耳川の戦いで島津に大敗した。そこで伊東家は、四国の河野氏を通して豊臣秀吉に仕え、伊東祐兵は河内国に五百石をもらっている。

そのころ九州では、大友家が天正十四年十一月に島津家により敗れ滅亡した。だが、秀吉による島津攻めが行われ、天正十六年五月に伊東家は日向飫肥城に入っ た。しかし、その頃国広は下野国、足利学校に入学したと思われる。天正十八年五月には足利城主、長尾新五郎顕長の為に作刀している。これが世に言う刀剣、 「山姥斬り」である。そして、長尾顕長と共に小田原城に籠城するが同年七月六日には落ちている。同年八月年紀の足利学校打ちの刀剣があるので、落城後に国 広はまた足利学校に戻った事がわかる。

次に天正十九年紀の短刀には在京時打之とあるので、この頃京にいた事は確かである。この間、おそらく小田原相州や島田、加えて美濃の大道との合作もあるので末関からも技術を習った事だろう。

また京に来てから、帰国した伊東満所に再会したと言う話がある。しかし、詳しい話は伝わっていない。また、文禄の役に参加して朝鮮での作刀があると言う噂があるが、現存する刀剣がないので杳として知れない。

その後、文禄三年には石田三成の下で日向検地に参加している様である。その後は、慶長四年から亡くなる慶長十九年まで、京一条堀川に定住している。

国広の名物の刀剣一覧
山伏国広、山姥斬り、加藤国広、大悲多聞天、など。

 

堀川国広一門系図

|―国助(河内守)―――国助(河内守)―国助(河内守)
|           |―肥後守国康
|           |―小林伊勢守国輝
|           |―ソボロ助廣―津田越前守助廣

|―国貞(和泉守)―真改―――土肥真了
|                |―奥和泉守忠重
|                |―伊賀守貞次

|―国儔

|―国時

|―国盛

|―国武(平安城)―吉武(出雲大掾)

国広―|―国清(山城守)―国清(二代)

|―国幸

|―国正

|―国徳

|―弘幸(平安城、丹波守)

|―国路(出羽大掾)―国次(越前大掾)

|―正弘(大隈掾)