第1章 1549年~1562年に来日した外国人とその紹介

 本章においては、『日本史料』に収録された諸々の書簡によって具体的な宣教師らの記述を見ていく前に、前提として1549年以降に来日して日本の社会を書き表した彼ら宣教師らについて言及したい。本研究において書簡を特に取り上げる1549年から1562年まで活躍した6人の外国人、すなわち、フランシスコ・ザビエル、コスメ・デ・トーレス、バルタザール・ガゴ、ガスパル・ヴィレラ、ルイス・デ・アルメイダ、そして、ジョージ・アルバレスについて紹介したい。

 まず、ザビエル、トーレス、ガゴ、ヴィレラに共通してイエズス会宣教師であったということから、彼らが日本を目指すまでの過程を簡単に述べたい。イエズス会は、「エルサレムにおけるカトリック教の布教」または「法王に指示あらばいずこなりとも赴く」ことをモットーに、1534年に初期のイエズス会が設立された。しかし、十字軍とオスマン帝国との戦いなどでエルサレムへの道は閉鎖されたことによって、その活動の場は東洋へと向けられることになった。1540年9月27日、パウロ3世の教書(Regimini militantis Ecclesiae)をもってイエズス会が正式に認可されることになり、その10年後の1550年7月21日にはローマ教皇ジュリオ3世の教書(Exposcit debilitum)」でイエズス会の活動をさらに確かなものにするため、イグナチオ・デ・ロヨラたちが提出した「基本精神綱要」を認可した。これによって、次第にイエズス会を派遣して欲しいという要請が世界各地(たとえばポルトガル、スペイン、パリ、アイルランド、ナポリ、パルマなど)から相次ぎ、イグナチオは会員をローマのみに置いておくのが難しくなってきたのであった。そこで、ポルトガル王ジョアン3世は、教皇にイエズス会をインドに派遣して欲しいと懇願した。それを受けてイグナチオはシモン・ロドリゲスとボバディーリャを任命したが、ボバディーリャは病気に臥したために、代わりとしてフランシスコ・ザビエルを向かわせることにしたのである。1541年4月、ザビエルはリスボンを発ち、翌1542年5月インドのゴアに上陸した。彼はその後、マラッカ、モルッカ諸島へ進んだ。1547年にマラッカで日本人のアンジローと会ったことによって、日本への強い関心を抱いた彼は、1549年に神父コスメ・デ・トーレスと修道士ホアン・フェルナンデスとともに、日本へ向けていよいよ出航することになったのである。彼ら一行はその年の8月15日に鹿児島へ到着した。

 

1インド布教の失敗と日本の布教対策

 ザビエルは最初から日本で布教するつもりは強くなかったと思われる。インドの布教状態はザビエルが日本へ行く一つの動機となった。来日前のザビエルは、日本での布教を構想するにあたり、それまでのアジアにおいて最も長期間にわたり力を注いだ、インド半島における様々な経験から、インド人キリスト教徒の質、インド布教の将来に悲観的であった。1548年1月22日コチン発ロヨラ宛書簡で次のように述べている。

[史料1]
 “Eu, Senhor , nao estou de todo determinado a ir a Japao, mas vai-me paresendo que sim, porque desconfio muito que nao ei de ter verdadeiro favor na India pera acrescentar a nossa sancta fee nem pera a conservacao da chistandade que esta feita.”

(日本語翻訳)
 “拝啓、私は完全に日本へ行く決意が充分ではない。しかし、(日本へ)行くしかない。なぜならインドで私達の信仰を伝えるのは難しく、私にはとても果たせない。インドでキリスト教徒を確保するのもとても難しいからである。”

 ザビエルは日本布教の将来性を高く評価し、インド布教のマイナス面を必要以上に強調しているきらいがあるので、その点を配慮しなければならない。ザビエルだけではなく、聖パウロ学院長を勤めた同僚のニコラオ・ランチロットも同様であった。ザビエルはインド人キリスト教徒の質の悪さを嘆き、その原因を「野蛮な」「理性に従わない人々」とインド人の気質に帰しているが、そのようなキリスト教徒を作ったザビエルの改宗方法にも問題があった。イギナチオ・デ・ロヨラ(1491-1556)に定められた布教作戦によれば、布教する土地で、出来るだけ当地の影響力がある貴族と権力者にアプローチするのが大事であったが、(宣教師は)その社会で高い地位、政治的な身分などを目指してはいけない。一方、それが権力者自らの意思で提供される場合であれば、断る必要もない。
 ザビエルはインドに滞在した間、社会身分の低い人から布教を始め、当時の高い身分のインド人、つまり土地に権威と権力を握っていた土豪に布教が辿り着かなかった。それが布教失敗の主な原因と思われる。
 同じ失敗を繰り返さないように、日本への布教は新しい作戦を練る必要があった。ザビエルが日本の布教に成功するのは、先ず当時の武家からの歓迎をうけることであった。キリシタンになった大名が頻繁に自分の家臣たちや領地の一般人まで、改宗させることが多かった。日本で武家との関係が和やかなうちに行われなかった布教はすぐに消えた。例として山口と薩摩の布教活動が取り上げられる。
 宣教師の布教政策は、当時の日本の政治、そして社会的な状況を考慮した上で、武家に近寄ることであった。しかしながら、武家との接近は、宣教師達が果たした結果として考えてはいけない。宣教師達が武家への布教と接近を目指す理由は、まず、後に一般庶民の布教活動を始めるときに、保護と支援を受ける目的であった。一方で、宣教師達は当時の日本の封建制度を把握し、家臣を改宗させるために上手く大名の権力と影響力を利用した。その権力の例として、1558年に籠手田安常が自分の領内にキリスト教を広める積もりで、自分の家臣を無理やりに改宗させたというエピソードが、ポルトガル商人のゴンザロ・フェルナンデズによる1560年12月1日の手紙に記録されている:

[史料2]
 “Taobem dom Antonio tinha hum criado gentio e disse-lhe que se elle e toda sua gente erao christaos, que elle por que nao era. Que se fizesse christao. E o gentio lhe respondeo que proveyto lhe vinha disso; que os christaos que tinhao mais que gentios? O dom Antonio, vendo como lhe respondia, levou da espada e cortou-lhe a cabeza”

(日本語翻訳)
 “ドン・アントーニョ(安常)には異教者の家来がいた。(彼は)その家来に、なぜ家来の中で彼だけはキリシタンではないのかと聞いた。そして、キリシタンになるように命じた。
家来が、キリシタンになって何がよいのか、そして異教者より、何故キリシタンのほうが特別なのかと聞いた。ドン・アントーニョがその回答に対して、刀を抜いて(家来の)頭を斬った。”

 [史料1]はザビエルがポルトガル帝王ジュアン三世宛の手紙である。彼は、はっきりインドの布教に対し、絶望を現している、そして、日本への布教に対し、まだ完全に確信していないことも分かる。日本では、コスメ・デ・トーレス神父が先頭に立って布教を進め、1554年には信者数は豊後で600名、平戸で200名、山口で1500名にものぼった。そこでさらに何名かのイエズス会員が新たに派遣され、バルタザール・ガゴ、ガスパル・ヴィレラ、そして医師のルイス・デ・アルメイダなどが加わって布教が展開されるのである。ちなみにアルメイダは日本に来てからイエズス会員となったという。
 しかし1554年には山口で争乱が勃発し、山口の信者は300名に減少した。この混乱は日本における布教活動に大きな障害となり、その後の布教活動は下火となっていったという。

 

2 戦国時代と宣教師の数不足

 1547年から62年までの手紙によれば、布教に対する困難は、主に戦国時代の状況、仏教徒との対立、そして、布教する宣教師の人数が少ないことである。
コスメ・デ・トレス宣教師によって書かれた1560年のヌネス・バレート宛の手紙によって、戦国時代の状況が布教に対して大きな壁になっていたことがわかる。トレスだけではなく、ヴィレラやザビエルも戦国時代の政治状況を記録した。

[史料]
 “ En espacio de estos diez o doze anos, sienpreadonde estuvimos hovo guerra, que es muy grande impedimento para predicar la ley de Dios.(…)”

(日本語翻訳)
 “・・・10年あるいは12年間、我々が滞在した場所では戦争が起き、それが主(キリスト)の教えを伝える大きな障壁になっている(草々)”

 ヴィレラ宣教師も日本にやって来た、ちょうどその時日本は群雄割拠の戦国時代であり、各国において戦争が行われていたため、キリスト教の布教は困難になると同じく述べていた。下記の手紙は1557年、ポルトガルの宣教師宛のものである。

[史料]
 “Teme esta mall esta terra, que he muito revoltosa. Porque sao este o monte da soberba, e nunqua descansao de guerras, que ha muito impedimento a lei do Senhor nao ire em crescimento”

(日本語翻訳)
 “この土地(日本のこと)はとても恐ろしく、反乱が多い。なぜなら、ここは傲慢の土地であり、戦争を絶え間なく行う。戦争は主(キリスト)の教えに背くのである。”

下記の年表をみると、宣教師の人員不足は明らかである。

1549 / Xavier Cosme Fernandez                   日本に到着
1551 / Xavier                            帰還
1552 / Gago ・Alcacova・Duarte                   日本に到着
1553 / Alcacova                           帰還
1556 / Almeida・Lorenzo(日本人)・Paulo(日本人)・.Guilhermo     イエズス会に入会
1556 / Nunes Barr. ・Vilela・ Mel.Dias・ Mend.Pint・ Rui Pereira   日本に到着
1556 / Meldias                            帰還
1556 / Mend.Pinto                          退会
1557 / Paulo                             死去
1560 / Gago・Rui Pereira                       帰還
1561 / Aires Schz                           入会

 

[図1]「九州全図」

Mapa da Ilha de Kyûshû (adaptado de Josef Franz Schütte, Monumenta Historica
Japoniae, Roma, 1975).

 

第1節 フランシスコ・ザビエル(Francisco de Xavier :1506-1552)

 彼については、とりわけ先に詳しく取り上げたのでここでは簡略化して書す。彼らイグナチオ・デ・ロヨラによって集められたパリ大学卒業者10人の内の1人であった。イエズス会が創立してから、インドの副王のペドロ・マスカレニャスの請願によって、1540年に教皇パウロ3世の命によってインドに送られることになったのである。

 

第2節 コスメ・デ・トーレス(Cosme de Torres:1510-1570)

 ヴァレンシア市出身のスペイン人。ヴァレンシアで司祭として活動し、その後ノヴァ・エスパニア(Nova Espanha)の副王の従軍牧師となった。1547年、当時、まだ司祭の頃、アンボイノ島でザビエルと初めて出会い、1548年にインドのゴアでイエズス会に入会した。1549年にザビエルと一緒に来日し、1551年から1570年までミッションのまとめ役として活躍した。ミッションのまとめ役と教育者として30年もの間、日本に向けて送り出す宣教師を日本社会に適応できるように、日本の習慣など教えるなど尽力した。だが、1566年には韓国での布教に向かうなど様々な事情で日本での布教を達成することはできなかった。

 

第3節 バルタザール・ガゴ(Baltasar Gago :1515-1583)

 ある史料によれば、ガゴの誕生は、1507年~1521年の間と推測することができる。1546年に自分の故郷リスボンで入会し、同年に司祭となった。1548年、インドのゴアに着き、1552年4月17日には、ザビエルらと中国での新しい布教活動を目的にゴアを出発した。同年にザビエルの計らいでガゴは日本へと送られ、日本に到着したガーゴは、鹿児島の種子島と府内を通った。その年の末にはコスメ・デ・トレスと山口において出会うことになる。1553年には、宣教師のジョアン・フェルナンデスと豊後で布教を開始し、1554年に府内で間引き反対運動を行い、孤児院を建造した。この運動は大友義鎮と元商人で後に宣教師になったルイス・デ・アルメイダに大きく影響を与えることになった。1556年に、平戸の司祭に任じられ、平戸に居を構えた。また、そこで日本のカトリックの教養本である「25課業」を書いた。しかし、現在のところこの教科書の所在は不明である。1557年にガゴは博多に移住したが、1559年にはその博多が破壊され、それとともに布教も失敗に終わってしまったのである。その後、健康状態も芳しくなく命の危険も心配されながら、府内へと戻ることになったのであった。病気の身体で1560年にインドへ戻るために日本を出発し、1562年4月にインドのゴアに到着し、そのおよそ20年後に、同地で死去した。

 

第4節 ガスパル・ヴィレラ(Gaspar Vilela:1525-1572)

 ガスパル・ヴィレラは、1525年頃にポルトガルのエヴォラに生まれ、子供の頃から聖ベネジクト修道院で典礼とカトリック教養を獲得し、1553年に司祭として、イエズス会に入会した。1554年4月にヌネス・ベヘト宣教師と日本に出発した。最初は、京都、堺、奈良で布教活動を展開し、1566年に韓国へ布教しに行くつもりであったが、戦国時代という厳しい環境の中にあってなかなか日本を出航できなかった。その後、1569年に長崎の小さな漁村で教会を築いた。宣教師のコスメ・デ・トーレスが他界してからは、新しい宣教師を募集するために、1570年にインドに戻り、日本に帰れなかったまま、1572年までゴアで暮らし、病没した。

 

第5節 ルイス・デ・アルメイダ(Luis de Almeida:1523-1583)

 ポルトガル人商人であり、ユダヤ教から改宗し、リスボンで医学部を卒業したアルメイダは、1556年の春にバルタザル・ガーゴにイエズス会の入会許可を受ける。ガーゴと一緒に日本で嬰児殺しを廃止させるため努力し、孤児院と、日本初の内科と外科を専攻する病院を創立するため、自分の財産を使い尽くした。医者として日本で大きな活躍をし、現在でも医者としての評判が残っている。しかしそれよりも、その人間性、教会に対する熱心さと色々なミッションの先頭に立った人物として、印象を残した。死去する3年前にマカオで司祭になった。

 

第6節 ジョージ・アルバレス(Jorge Alvares:-1552)

 彼は、ポルトガル商人で自船を操る船長であった。もともとインドにおいてザビエルと親交を深めたといわれており、1545年の秋にマラッカで日本へ行く準備をしていた際に、同地ででザビエルと再会した。その後、日本には1546年末から1547年の初めにかけて訪れ、日本に関する詳細な記述を残した。1552年に三山島でザビエルを歓迎した。