星光を継ぐ者ども 第十回

星光を継ぐ者ども 第10回 森 雅裕

 葛飾北斎は九十歳の寿命が尽きるまで絵を描き続けたが、およそ七十年前にも九十一歳まで現役だった浮世絵師がいた。しかし、晩年は流罪となった伊豆国新島での作画であった。宮川一笑。元禄の初めに生まれ、安永の末に没した絵師である。

 その日、一笑は吉原遊郭の大見世で画紙を広げ、女を描いていた。目の前にいる絵標本(モデル)は吉原浦島屋の遊女・芳栄。描かれていてもかまわずに動き回り、三味線をかき鳴らしている。

「これからは太夫も格子もなくなって、散茶が一番上になるらしいよ」

 芳栄は他人事のように、いった。

 寛延三年(一七五〇)の十一月である。吉原も変革しつつあった。客層が大名や豪商から一般町人へ移っているのである。

 吉原遊女は二千人を大きく越え、太夫はその最高位だが、一人からせいぜい五人しかいない大名道具で、芳栄はその下の格子である。それでも六、七十人のみという上級遊女に数えられる。その下には散茶、埋(梅)茶と階層が広がり、さらに切見世やら下級の遊女群が入り乱れ、時代によって名称も格付けも混乱している有様である。そればかりでなく、客と上級遊女を引き合わせる揚屋も簡便な引手茶屋へと転換しつつあった。

「まあ、私はじきに年明けだから関係ないけどさ」

 吉原の年季明けは二十七歳の暮れと決まっている。過酷劣悪な環境で罹病したり早死にする者が多いから、この年まで生き抜く遊女はよほどの強運だ。芳栄は上州の貧乏百姓の娘で、借金と口減らしのために売られてきた。実家に帰らないのか、などと訊くまでもなかった。

「普通なら、吉原を出たらどうするんだって訊くもんだよ」

「あ。うん。……どうするんだ?」

「嫁に来てくれという人がいてね」

「いるだろうな、お前なら。で、どこのどなたかと訊かなきゃいけないのかな」

「教えてあげる。狩野春潮さんだよ」

「稲荷橋か」

 御用絵師の狩野家には中橋(宗家)、鍛冶橋、竹川町(のち木挽町)、浜町という四家の「奥絵師」を頂点として、十家を越える分家「表絵師」があり、さらに一般町人の注文に応じる「町狩野」と呼ばれる外弟子群が存在する。この頃、「奥絵師」「表絵師」は公式名称ではないが、階層は厳然と存在していた。稲荷橋狩野は表絵師の中でも比較的新しく、当代はまだ二代目の春賀理信。この春賀には二男があり、長男が春潮全信、次男が春泉明信である。

「行くなというなら、考えるけど」

「俺にはお前さんの生き方に口出しはできねぇ。しかし、春潮をどう思うかと訊かれりゃ答えてやる。いけ好かない野郎さ」

 昨年、日光東照宮の彩色修復に狩野春賀は門下生の他に町絵師たちを率いて参加した。その中には浮世絵師である宮川長春の一門も含まれていた。長春は若い頃には各所で修業しているが、稲荷橋狩野の初代である春湖元珍の弟子筋でもあるのである。

 その修復には長春の一番弟子である一笑も参加した。

「春賀もその子の春潮も、ただ絵具を塗りたくるだけの面白くもねぇ絵しか描けねぇくせして、表絵師の威光を笠に着て、町絵師を見下していやがる」

 奥絵師は武家にたとえれば旗本格で帯刀を許され、表絵師は御家人格であるが一部の例外を除いて帯刀は許されない。幕府御用も分担制となっており、徳川家霊廟の補修は表絵師の職掌である。

 奥絵師は商家や遊郭での席画など自由にできないが、表絵師はまだしも束縛がゆるい。幇間まがいの表絵師もいるくらいだ。そうはいっても、天下の狩野派には違いなく、宮川一門のような町絵師とは格式が違う。

「あのね。そんなこというけど、私に春潮さんを紹介したのは一笑さんだよ」

「そうだったかな」

 一笑が芳栄を描くのは初めてではない。以前の作画を見た豪商がこの遊女に会いたいといい出し、一笑としては断る理由がなく、引手茶屋を通して、芳栄に引き合わせた。春潮はその豪商に付随してきたのである。おそらくは春潮が熱望したのだろう。一笑に芳栄の紹介を頼んでも断られると見越して、豪商を表に立てたのである。

「自分も描きたい」

 と、春潮は芳栄や遊郭の者たちにしつこく訴え、実際に何枚かは描いたようである。一笑にしてみれば、心ならずも自分が取り持ったようなものだ。いい気分ではなかった。それでも冷静を装うことで、芳栄に対して特別な感情を持っているわけではないと、自分にも他人にも表明してしまったわけである。

 彼はもう六十歳を越えている。よほどの売れっ子で金も地位もある絵師なら芳栄のような人気遊女と格別の関係になるのもよかろうが、その日暮らしの貧乏絵師である。そうした自嘲ともいえる分別が歯止めとなっていた。

 芳栄とは遊女と客として知り合ったのではなく、浦島屋からの作画依頼がきっかけだった。その絵は好評で、以後は一笑の方から望んで芳栄を描いているのだが、あくまでも仕事上のつきあいである。一笑はそのように自分にいいきかせている。絵師としての潔癖さも足かせとなっていた。

「ところで、何でそんなにたくさん描くんです?」

 芳栄は一笑の膝元に重ねられた画紙を指した。すべてこの場で描いた芳栄の姿である。席画といっても、即興的な小品ならともかく、現場では下描きにとどめ、自宅で仕上げるのが普通だ。

「いつまでお前さんを描けるかわからねぇからな」

「今のうちに描き溜めってわけかい」

 芳栄は三味線を放り出し、どたどたと近づいてきて、絵の束を取り上げた。

「きさんじなもんだね」

「何?」

「洒落てるっていったんですよ。少なくとも春潮さんに描いてもらった絵より」

「春潮なんぞと比べるな」

「やれやれ。春潮さんに見そめられてようございましたネといってくれる奴なんかいやしない。天下の表絵師なのに」

「春潮には春泉って弟がいてな。そいつはまだしもマシな男で、稲荷橋狩野はこの弟が継ぐという話だ。うちの師匠の宮川長春の娘と縁談もある」

「なるほど。嫁にも兄弟で差があるってわけかい」

 芳栄は窓辺に座り込み、外に目をやりながら頬杖をついた。その横顔を一笑は早業で走り描きした。

 

 浅草は酉の市で、吉原では鷲明神の参詣客を呼び込むために普段は閉じてある西の一門も開かれる。大きな熊手をかついだ客たちででごった返す吉原を離れ、一笑は帰宅した。芝田町二丁目(現在の田町駅付近)のボロ長屋の家主をまかされている。家主といっても所有者ではなく、店子を管理する「差配」として雇われているのである。

 ボロ長屋の路地入口に一笑の住まいがある。まだ明るい時刻というのに、若い男が画紙とゴミの山に埋もれて寝ていた。一笑に家族はいない。弟子の春笑である。親元を飛び出し、一笑の長屋にいない時は女のところに転がり込んでいる。

 一笑は物音を立てずにゴミの隙間へ座り込み、部屋に立てかけてあった画板と向き合った。そこに張り付けられた下絵は居眠りする鍾馗である。これを見守る形で芳栄を組み合わせ、描いてみようと思う。

 吉原から持ち帰った画紙の中から、適当な芳栄の姿を選んでいると、ゴミの山の中から春笑が身体を起こした。

「あ。お帰りなさい。起こしてくれりゃよかったのに」

「起こしたら掃除でもしてくれるのか」

「しやしませんよ。世間の出来事を御報告したら、女のところへ行きます」

「じゃ、早くいえ」

「師匠が吉原に御滞在の間に事件が起こりましてね」

「何だ」

「玲伊さんの嫁入りが破談になったんです」

 玲伊とは、稲荷橋狩野の次男・春泉に嫁入りすることになっている宮川長春の娘である。

「ああ?」

「狩野春賀先生が宮川長春先生に、申し入れてきたそうです」

「春泉坊やと玲伊さんは相思相愛だと思っていたが」

「当人同士も親同士も乗り気だったはずですがね」

 玲伊は宮川長春が五十近くになってから後妻が生んだ娘で、今は二十歳前である。少女の頃からこの縁談はあった。今さら何の支障があるだろうか。あるいは表絵師の息子と町絵師の娘が釣り合わないというなら、一旦どこかへ養女に入れるとか、方便がありそうなものである。

「何があったんだ?」

「私は宮川一笑の弟子なんでね。宮川長春先生の家庭の事情なんざ知りませんや」

 春笑は一笑の手元の絵を覗き込み、唸った。

「芳栄さんへの思い入れが籠もっていますなア」

「何をいいやがる」

 春笑は一笑に付き従って吉原へ出入りし、芳栄の顔は知っている。

「師匠の描く女人は出来不出来が激しいので、好きな女かどうか、よくわかります」

「勝手にわかっていろ」

「女の方も絵師に気を許してなきゃ、こんな姿は描かせませんよ。似合いだと思いますがね。でもさ、芳栄さんは遊女の身であることを遠慮して、自分から押しかけちゃ来ませんぜ。師匠。聞いてます?」

 聞いていたが、返答を考えているうちに一笑は部屋を出て、草履を履いていた。土間に野菜が届けられている。近隣の百姓が肥料とする汲み取りの礼に置いていったのだろう。

「あ。礼金も受け取っておきましたよ」

 春笑が野菜の傍らに置かれたわずかな銭を指した。一笑は総後架(共同便所)や井戸端を見回りに出た。これが家主としての仕事なのである。もっとも、汲み取りの謝礼などは、年末の餅代として店子に還元する慣例だ。

 宮川長春の屋敷は下谷で、破談については気がかりだったが、日が暮れかかっている。今日はもう出かける気になれなかった。

 

 翌日、宮川長春を訪ねた。勝手知ったる屋敷に上がり込むと、長春の妻とすれ違った。長春とは親子ほど年齢差があり、普段は声を聞くこともないほどおとなしい女だが、意外な言葉が聞こえた。

「情けない。ああ情けない」

 聞こえよがしに呟かれると、一笑は自分のことかと肩身を狭くしながら、仕事部屋を覗いた。宮川長春が画紙の前に座っていたが、絵筆を握った腕を見ると、心ここにあらずという重い動きだ。どうやら情けないのはこの男らしい。

「稲荷橋の気が変わったんですかい」

 いきなり切り出したが、長春は表情を動かさない。青ざめた固い表情で、筆を置いた。

「俺の素姓がバレたってことだよ。ふん。かみさんにも隠してきたことだったが」

「師匠。もとは盗賊の親方だったとでもいうんですかい」

「もっと恥ずかしいかも知れねぇ。俺の生家のことよ」

 宮川長春は尾張宮川村の出身ということになっている。

「実はな……江戸へ出る前は美濃高須藩の武士だった。尾張支藩なので尾張といえぬこともない」

「へええ。侍の出ですかい。まあ、ただの田舎者じゃあるまいとは思っていたが……」

「もとは播州赤穂、浅野家家臣の次男に生まれたんだが、美濃高須の親戚に跡継ぎがなかったので、養子に入った。赤穂事件の前だ」

「赤穂? するってぇと……」

「俺の兄が赤穂の実家を継いだが、吉良邸討ち入りの義挙からは脱盟している」

「それはそれは……。参加者は英雄視されたが、脱盟者は一族郎党に至るまで唾棄されたそうですなア」

「卑怯者、恥知らずと蔑視され、素姓を隠して生きるしかなかった。事件後まもなく、俺は養家を追われた。卑怯者の実弟だからな」

「討ち入りはもう五十年近く前のことじゃありませんか。それが今さら稲荷橋狩野に知られたと?」

「昨年の東照宮修復の折、尾張藩から差し向けられた絵師の中に花村喜斎という男がいた。狩野派だ。若い頃の俺は尾張で狩野派を学んだことがあるからな。喜斎とは面識があった」

「そいつが師匠の素姓を告げ口したんですかい」

「東照宮で会った時には、こちとら昔とは名前が違うし、面変わりもしている。むろん俺もすっとぼけていた。喜斎にしてみりゃ、江戸で評判の宮川長春に妬み嫉みもあったのだろうよ、狩野春賀に告げた。赤穂の卑怯者の血縁者にこの長春が似ている、となア……。春賀にしてみりゃ、息子の嫁をもらおうという宮川家だ。聞き捨てにはできねぇやな。喜斎は東照宮の仕事を終えたあと、しばらく尾張藩江戸屋敷に滞在していたが、この夏に尾張へ戻ると、俺のことを調べたらしい。尾張宮川村の出身というのは嘘だと知れた。美濃高須の養家とは縁を切った俺だが、江戸で絵師になっていると風の便りが届いていたようだ。そうした俺の正体がつい最近、稲荷橋狩野に報告されたわけさ。人間の運が尽きる時はこんなもんだ」

 赤穂浪士による吉良邸討ち入りは元禄十五年(一七〇二)十二月だから、四十八年も経っているのである。しかし、討ち入りの翌年からこの事件を題材とした浄瑠璃、歌舞伎が繰り返し上演されている。一昨年の寛延元年(一七四八)には決定版ともいうべき浄瑠璃の「仮名手本忠臣蔵」が大坂で初演され、翌年には江戸でも大当たりをとった。

 歌舞伎の「仮名手本忠臣蔵」も同時期に大坂、江戸で立て続けに上演されて、赤穂義士の名声が高まる一方、脱盟者は怯懦、仇敵の吉良方は横暴という見方が定着した。今はまさにその時期なのである。

「そういうわけで、春賀は息子の嫁に俺なんぞの娘はいらぬといってきた」

「しかし、春泉と玲伊さんは好いた者同士でしょう」

「親にしてみれば、息子の色恋よりも狩野の画名が大事ということだ」

「長男の春潮は好き勝手やってますがね」

「春潮は遊女を嫁にするという噂だな。春潮は博徒どもとつきあうような野良者ゆえ、親父の春賀も見放している。だからこそ、次男の春泉には恥ずかしくない嫁を迎えて跡継ぎにしたい。それが春賀の考えだ」

「はあ。遊女とて恥ずかしくはありますまいが」

「お前のような市井の民なら遊女の嫁でもよかろうがな」

 無礼な言い方だが、長春に悪意はない。ただ無神経なのである。そして、自尊心が強い。

 長春は芳栄という遊女を知らなかった。一笑は彼女を思い、少しばかり胸が痛んだ。その理由は自分でもわからない。わかろうとしなかった。

 一笑の胸中にかまわず、長春は言葉を続けた。

「絵師は家柄じゃねぇ。腕だ。見下される筋合いはねぇ」

 話しているうち、気力とともに怒りが湧いたらしい。顔に血色が戻った。

「表絵師の看板に慢心していやがるが、評価するのは自分じゃねぇ。世間だぜ。世間の皆様が東照宮修復の腕を見て、稲荷橋狩野と宮川一門のどちらが上だと思うかな」

「まあ、そのへんがわかっているからこそ、稲荷橋狩野は面白くなくて、あの仕事の賃金を払ってくれないのでしょうがね」

 東照宮修復は去年の仕事である。宮川一門は稲荷橋狩野の下請けという形で参加したが、現場では稲荷橋狩野と対等以上の仕事ぶりで、幕府の役人や東照宮の関係者からも評価された。しかし、賃金、画料は稲荷橋狩野に預けられ、そこで止まっている。

 当然、一笑にも支払いは回ってこない。元々、狩野春賀は吝嗇で、しかもいい加減な男なのである。長春にしても、姻戚を結ぶならうるさく催促するのはためらわれた。だが、破談となればもう遠慮する必要はない。

「手間賃だけじゃねぇ。高価な絵具を使ったんだ。勘定書きを束にして送りつけてやろうか」

「そうですな。私もね、若い頃からあれこれ我慢してきましたが、それでも、たいしていいことはなかった。六十過ぎて、もう我慢はしたくねぇ。腹が立ったら、遠慮なく怒りたいと思っています」

「思っている」のである。実行しているかどうか、自分でも何ともいえない。若い頃も短気ではあったが、道を踏みはずす手前でいつも自重してきた。年をとって、堪え性がなくなったのは確かだが、今もぎりぎりのところで踏みとどまってしまう。それが一笑の性格だった。

 

 それから数日。十一月も終わろうとしている。

 一笑は長春と七歳しか違わない一番弟子であるから、宮川一門では頼りにされている。一笑の自宅へ「その二人」も今後の相談にやってきた。破談になったはずの春泉と玲伊である。

「狩野の家を出ようと思います」

 と、春泉は晴れがましいほどに顔を上げ、宣言した。

「町絵師になります」

 一笑は散らかり放題の部屋を「見ろ」とばかりに、指を回した。

「お前さん、町絵師をなめちゃいないだろうね。お上からの拝領屋敷も俸禄もないんだ。絵具だって、いいものは使えねぇ。ゴミ溜めで暮らしながら、食うためにはゲス野郎に頭を下げることもある」

「覚悟の上です」

「まだまだ、そればかりじゃねぇぞ。あんたたちの場合は」

「わかっています」

 春泉ではなく玲伊がいった。

「赤穂の卑怯者の血筋となれば、肩身の狭い思いをするでしょうが、図々しく生きてやります。父にもいってやりました」

「ふむ。あんたたちが世間を敵に回してでも所帯を持つこと、長春師も承知か」

 なら、一笑がとやかく説教する筋合いでもない。

 春泉が思いつめた表情で、いった。

「ついては、住まいを探しているのですが、うかつな場所では父に見つかるかも知れず……」

 世間知らずの男女なのである。顔も広くはない。

「そうかい。ほとぼりが冷めるまで、江戸を離れた方がいいな」

 一笑はそういったものの、ほとぼりが冷めることなどあるだろうか。春泉が狩野家を勘当される覚悟だとしても、話をつけずに逃げるような行動は禍根を残すのではないか。一笑はそう危惧したが、狩野春賀への反発心が、こんな発言をさせた。

「松戸に知り合いの百姓がいる。野良仕事を手伝うなら、置いてくれるだろう。絵も描ける」

 春泉と玲伊の顔が明るくなった。

「お願いします。そこをお世話ください」

「何があろうと、一年や二年は江戸に戻るんじゃねぇぞ。たとえ親が死んでも」

「はい。一笑さんを手本にして、家族のしがらみは捨てます」

 少しばかり傷ついた。一笑とて、好んで家族を持たないわけではない。

「紹介状を書いてやる」

 一笑は押し入れから荷物を取り出したが、筆や硯ではなかった。長い布袋である。長脇差だった。

「あのな、先祖の汚名には俺も肩身の狭い思いをしたぜ。こいつは今まで内緒にしてきたことだが……」

 一笑は柄を抜き、春泉に渡した。銘は「村正」である。

「これは……」

「俺の曽祖父が京都で作ったものと聞いている。堀川国広の甥だとかいう大隅掾正弘の手も加わっているらしい。合作というところかな」

「村正が一笑さんの御先祖でしたか」

「村正でも有名なのは初代と二代だが、曽祖父は四代だと聞いている。徳川家に祟るとか噂されて、刀鍛冶としては不遇だったようだ」

「妖刀と聞きますが……」

「どうだ。見入っていると、無性に人を斬りたくなるか」

「いいえ。しかし、変わった地鉄ですね」

 春泉は脇差の肌模様に絵師らしい目を向けた。

「光の筋が流れています」

「星鉄というものを使っているらしい」

「へええ。流れ星ですか。私もこの名刀のように子孫に残せる絵を描きたいものです」

「いいなア。俺には子孫はいないけどな」
「あ。いや、失礼しました」

「別に失礼ってことはないさ」

 紹介状を書きながら、言葉を続けた。

「ところで、手に手を取り合っての駆け落ちでは、思うように動けまい。まず、玲伊さんが先に行きなさい。うちの春笑を供につけよう。行く先は江戸川の向こうだが、両岸に田畑を持つ百姓はいちいち松戸の関所まで遠回りしていられないから、農民渡船を許されている。春泉さんは普段通りの生活をして、春賀さんが油断した隙をついて、あとを追うがいい」

「さすがは年の功。一笑さんなら、力になってくれると思っていました」

 自分のことはからっきしだが、他人の色恋なら知恵も浮かぶのである。それにしても、いちいち癇に触る春泉の物言いだが、何かをいい返すのも面倒だった。