骨喰丸が笑う日 第六回
骨喰丸が笑う日 第6回 森 雅裕
呼ばれてきた医者は清麿の腹から腸が出ているのを見ると、あたふたと周囲に指図した。
「ハラワタを入れるのに腹を柔らかくせねばならん。大麦を煮ろ。絞りカスは袱紗に包んで腹に当て、温めよ。煮汁で腹を洗浄する。それから生後十七日以内の赤ん坊の糞がいる。ハラワタに塗るのだ。おい、ヒマ(唐胡麻)の種をつぶせ。患部の腐敗防止に使う」
指示だけは頼もしいが、そんなものは急には間に合わない。清麿の弟子ばかりでなく、近所の住人を巻き込んで右往左往するうちに、稀代の刀鍛冶は息をしなくなっていた。宗次には何もできなかった後悔しかなかった。
そのあと、付近に住む御家人や町方の役人が数人やってきたが、検視なのか野次馬なのかもわからない有様で、死体を前に世間話しているようなのんきさだった。
せわしなく動き回っているのは清麿の弟子たちで、宗次の前を何度か素通りしたが、言葉を交わす暇もない。
宗次は血に染まった羽織を脱いだ。母屋へ近づくと、顔面蒼白の清人が立っていた。手には半纏と股引を持っている。
「宗次先生。これ、師匠の仕事着ですが、どうぞ着替えてください」
木訥で不器用だが、他人に対しては気が利く男なのである。
「一体、どうしてこうなった? 清麿が自害する理由は何だ?」
「わかりません、わかりません」
「昨日今日、何かあったのか」
「はい。ええと、昨日、御番所(奉行所)から使いが来ました。今日の呼び出しでしたが……」
「よほど行きたくなかったのかな。呼び出しの用向きは聞いているか」
「いえ。役人なんて横柄なもんです。何も教えてくれません。師匠は吉田寅次郎さんのことで、自分も取り調べを受けるのだと思ったようですが」
「早合点したな」
「違うんですか」
「寅さんの持ち物を返してくれようという話だったんだ。そんなものは建前で、本当の目的が取り調べだとしても、清麿が自刃する動機にはなるまい」
「はあ。うしろめたいことは何もありませんから。でも……」
清人はその先は口をつぐんだ。被害妄想の清麿だから、冤罪に陥れられるものと絶望したのである。こんなことになる予兆はあった。
時太郎の泣き声が聞こえたので、宗次は母屋に上がり、抱きかかえた。生まれて一年半。すでに小走りもできるほど成長している。
「あの、宗次先生。これは……?」
清人は傍らに放り出された熊手と大福を取り上げた。
「土産に持ってきたんだ」
「はあ……」
時太郎を見守りながら縁側を歩かせていると、キラが三味線抱えて帰ってきた。宗次を見つけるなり、作り笑いを炸裂させた。
「あらまあ、固山宗次先生。そのお召し物、うちの旦那様とお揃いですわね。おやおや、そこら中に役人まで出張ってますね」
いつ呼吸するのかと心配になるような勢いで、まくし立てた。
「にぎやかですねぇ。また音がうるさいとか火事になりそうだとか、御近所の苦情でも来ましたか。あらら、この寒空にうちの赤ん坊を裸足で歩かせてくれて、ああもう、足が冷たくなっちゃって」
庭先から縁側に手を伸ばし、時太郎の足に触ったが、自分で抱くでもない。キラのわずかな息継ぎの間に、宗次はようやく言葉を発した。
「赤ん坊の足は冷たいもんだ。あっためちゃいけないというぜ」
それでも冷えすぎないように、宗次は注意していたが。
キラは宗次の言葉など聞いておらず、清人が持っている土産に目をとめた。彼は自分が何を手にしているのかも忘れてしまったような虚脱状態だ。
「お前はまた何を遊んでるのさ。熊手なんて遊郭や料理屋が飾るもんだよ。芸妓だった私への当てつけかい」
「私が持ってきたんだ」
と、宗次。
「あらまあ、なんだか半端なもの頂いちゃったわねぇ」
でかい声で嫌味をいうものだから、あたりの耳目を集めた。役人もまた大声を発しながら、近づいてきた。
「女房か。亭主が自害した理由は何か、心当たりはあるか」
「へ?」
ここでようやく清人が発言した。
「師匠が腹を切ったんです。厠で」
ひぇっ、とキラは叫んだ。
「なんでそれを早くいわないか、この馬鹿弟子!」
「忙しそうに話しておられたので……」
「お前、今夜は飯抜きだからねっ」
キラは厠へ向かって駆け出したが、足をもつれさせて、派手に転んだ。その拍子に三味線を投げ出し、身を起こすと、泣きわめきながら、さらに走った。
清人は庭に降り、しゃがみ込んで、三味線を拾い上げた。鼻をすすっているので、泣いているようだ。彼は二年しか清麿に師事していない。宗次は彼の背中を見下ろしながら、いった。
「何なら、うちで飯食わせてやるぞ」
それは色んな意味を持つ声かけだったが、清人に伝わったかどうか。
「飯よりも、兄弟子たちと今後の相談をしないと……」
「お前たちの身の振り方は、俺も力になってやるさ」
「いえ。師匠はここしばらくはまるきり作刀していない有様で、刀債をかなり抱えていましたから、それがどうなるのかと……」
「お前のその師匠思い、うちの弟子どもに見習わせたいよ」
「役立たずの弟子ですよ。もっと師匠の様子に気をつけていたら……」
「だが、一日中、清麿に張りついているわけにはいかないだろう。人は本気で死ぬ気ならどんなことしても死ぬぜ」
その言葉は清麿を救えなかった宗次自身の弁解でもある。
「あのう……師匠は今際の際に何かいい残しましたか」
「時太郎を刀鍛冶にはしたくないようだった」
「それは普段からいってました」
刀鍛冶になれば、清麿の息子と一生いわれ続けるのである。有利なことも不利なこともあるだろうが、重荷を背負わせたくなかったのだろう。そして、もうひとつ、清麿は「貧すれば鈍する」と嘆いていた。
混濁した意識が言わせた意味のない言葉かとも思ったが、そうではなかろう。思うような作刀ができなくなり、吉田寅次郎のためとはいえ、宗次の作に自分の銘を入れた。それが清麿には「貧すれば鈍する」だったのだ。職人なら仲間内で作品を融通するのは有り得ることだが、芸術家気質の清麿は挫折感を味わい、何よりも自分が衰えてしまったことに苦悶したのだろう。
(俺は余計なことをしたのか)
宗次は脱力感に襲われ、縁側に座り込んだ。時太郎が膝を踏んだり、肩へよじ登ったり、孫のように玩具にされるがまま、自責の念に打ちのめされていると、庭に通じる路地が騒がしくなった。
知らせを受けたらしく、アサヒと信秀が駆け込んできた。役人たちが面倒そうに立ちふさがるのを突破し、二人、同時に怒鳴った。
「清麿師が一大事だってぇ! 酒代の掛け取りはどうなるのさぁ」
「役人ども、師匠を捕らえに来たか。俺は関係ないぞぉ。善良な食客だからな!」
役人も彼らには大して興味なさそうだった。世間話しかしていなかった役人が「ここいらは武家地だから徒目付が『検使』としてやってくる」と、町方の管轄でないことを告げた。
「その検使はいつお出でになるので?」
「忙しいからな。二、三日後かな」
江戸の変死体の扱いはこんなものである。徒目付がやってきても、一通りの事情聴取をすませ、遺体の始末は家族や関係者にまかせてオシマイだ。
「それまで骸はどうしますか」
「動かしてはいかん」
厠に放置しておけといい残し、役人は帰ってしまった。
「馬鹿じゃねぇのか。かまうもんか。母屋へ運べ」
宗次は清麿の弟子たちに指示して、部屋へ運ばせ、身体を清めさせた。血まみれの短刀は柄もハバキもついていない刀身のみの状態だったので、よく洗い、油を塗った。もっとも、明日には錆が発生するかも知れない。
「清麿師、そいつを割腹に使ったのかい」
アサヒが怒ったように呟いた。
「そうだ。お前はこの短刀がどうなっているか知らないといってたが」
「知らなかったよ。こんな荒っぽい扱いを受けているとは」
「清麿が持っていることは知っていたんだな。ところで……」
宗次はアサヒの前に短刀拵を置いた。
「鞘はどこかと探して、仕事場で見つけた。この短刀の拵だろう。ぴたりと合う」
趣味的な変わり拵である。煙管を表と裏に二分割し、拵に埋め込んである。火皿と雁首が目貫の位置にあり、羅宇が柄から鞘へとつながり、吸口が鞘尻近くについている。返り角の意味もあるのか、表についている吸口は突出しているが、裏はさほどでもない。
「遊び心の拵だ。この煙管をぜひとも利用したかったようだが」
「知ってるよ。お栄さんの煙管だよ」
北斎は酒も煙草もやらず、特に煙が嫌いで、蚊遣りも焚かないほどだったが、娘の栄は違った。
「あの人はかなりの煙草のみだった。いつだか、清麿師のところへ来た時に忘れていったんだ。北斎さんの絵に火種を落として、禁煙を誓ったとやらで、そのまま引き取らなかった。でも、禁煙は毎度のことで、長続きしなかったようだけど」
「ふむ。お栄さん愛用の煙管を使って『応為』の注文銘がある短刀に拵を作ろうと……考えたのは清麿か。お栄さんは消息不明だから、ずっと清麿の手元にあったのかな。北斎師が死に、お栄さんが消息不明になって五年だが」
「拵を作るのに何年もかかることだってあるさ」
「持ち主があまり執着せず、催促しない場合もあるよな」
「持ち主?」
「ほれ。ここに持ち主の名前があるぜ」
鞘の差表へ埋め込まれた煙管の羅宇に「あごに似ぬ さかさびいどろ 孫の名は」と文字が彫り込まれている。
北斎は栄を「あご」と呼んでいた。彼女の容姿はアゴが出ていたのである。「さかさびいどろ」とは「逆さに吊したガラス」で、これは美人の意味である。「あご」と「さかさびいどろ」は母娘なのに似ていないといっているのである。
「そして、孫の名がここに隠されているわけだ。あごに似ぬ、さかさびいどろ。この中にアサヒという文字が隠れているよなあ。しかも、孫というからには、この言葉は北斎師が発したことになる。煙草嫌いの北斎師が、孫に煙を吸わせるなというお栄さんへの戒めのために彫り込んだのかも知れねぇ」
北斎の親友だった滝沢馬琴が「北斎、はじめは剞けつ(彫刻)をまなびしが」と書き残しているから、北斎に彫刻の心得はあった。美術品としての彫刻ではなく、出版物の版木を彫るのである。北斎自身も洒落本『楽女格子』(雲中舎山蝶作・安永四年)について「此の書の末六丁ほどは、予が彫刻なり。此の節十六歳なり」と語っている。
「つまり、お栄さんがいなきゃ、この短刀の持ち主はお前だな、アサヒよ」
「ふん。私の名は北斎さんの命名だと聞いてるよ」
「以前、お栄さんの子供を探している油屋がいたなあ。清麿の弟子に入ったというから、男だとばかり思っていた。行丸の刀工名をもらい、通称は楽太だとか聞いた。清麿の萩行きに同行して、途中で死んだと」
「お察しの通り、行丸は私だよ。楽太というのはガラクタって言葉をつめて、北斎さんや清麿師が若い者をそう呼ぶんだ。私だけじゃない」
「お前、清麿の弟子だったのか」
「そう大層なもんじゃない。幼い頃、日本橋の酒問屋に養女に出されて、十四、五歳で四谷の旭屋の看板娘になって、お得意の清麿師のところに出入りするうち、悪戯半分で鍛冶屋の真似事をするようになった。でもさ、そのうち旭屋を女の細腕で切り盛りするようになったら、鍛冶仕事は片手間にできることじゃない。彫刻の方が性に合ってた」
「なんで今まで黙ってたんだよ」
「訊かれなかったからね。お前の母親は誰か、なんて。それに今さら血縁者のしがらみを背負わされるなんざ御免だよ。この短刀は今じゃ私が持ち主かも知れないけど、有難くも面白くもない」
「清麿もお前の気持ちを酌んで、行丸は旅の空で死んだと嘘ついたのか」
「いやいや。清麿師も面倒臭かっただけさ」
宗次は短刀の彫りを見やった。
「この地蔵を彫ったのはお前だったな」
顔が北斎に似ている。北斎も晩年は丸坊主だったから、そう見えるのかも知れないが。
「ああ。北斎さんに似ちまったんだ。似せようとしたわけじゃないけど、あのクソジジイ……とか思いながら彫ったら、こうなった」
地蔵は左手に如意宝珠、右手に錫杖を持つのが決まりだが、変わっているのは、左手の宝珠をこちらへ差し出すように高く掲げていることである。
「もうひとつ、気になることがあるんだが」
「刀鍛冶というのは面倒臭い人間だねぇ」
「茎の銘だ。応鏤骨為形見。この『鏤骨』というのが意味深だ」
「ああ、うん。そういやあ、この短刀を清麿師は骨喰丸と呼んでたね」
「ほねばみまる……。短刀じゃ骨まで断ち切った来歴があるわけじゃあるまい」
骨喰藤四郎の号を持つ「名物」が将軍家に伝わっているが、これは薙刀直し脇差ではあるが、長さは二尺近く、ほぼ刀である。
「どういう由来があるんだ?」
「ホント、めんどくさい」
「は?」
「おにぎりでも作ってこようか」
アサヒは台所へ向かい、キラがわめく声が聞こえた。
「食う気なのかい、こんな時に」
そんなことをいっているようだ。アサヒはいい返すよりも何やら歌っていた。
「変わったお経ですね」
弟子の誰かが呟いた。
清麿宅の混乱は一晩中続いた。宗次が帰路についたのは夜明けの時刻だったが、空は暗いままで、雪が舞い落ちていた。後日、奉行所からあの小さな剣が清麿宅へ届けられたことを宗次は聞いた。
清麿自刃の十三日後、嘉永は安政へと改元された。時代は幕末の騒乱へと雲行きを早め、十四年後の維新へと向かっていく。
慶応四年(一八六八)。徳川政権は瓦解した。四月に江戸は無血開城し、将軍慶喜は水戸にて謹慎。抗戦派は盟主なき戦時体制に入った。
桑名藩も藩主・定敬は会津藩主・松平容保の実弟であり、この二藩が鳥羽伏見の戦いでは幕府軍の主力であった。しかし、敗戦によって、桑名の藩論は恭順と決した。見限られた定敬は一部藩士を率いて、三月に越後柏崎へ移り、会津藩、長岡藩と連携している。そんな時である。
宗次は桑名藩御用鍛冶であるから、対岸の火事ではない。何度も八丁堀の藩邸を訪ね、懇意にしている腰物掛から状況を聞いた。この藩邸もいずれ薩長の新政府軍に召し上げられるだろう。
腰物掛は眉をハの字にした困り顔だが、声は元気だった。
「わが殿を見送ったあと、かつて楽翁公(松平定信)が愛でられた藩邸の池魚を網で捕ってな、大酒宴を催した。わはははは」
爆発するように笑ったが、困り顔は変わらない。
「藩邸に残る者も少なくなった。宇都宮で戦い、会津へ向かった者たちもおる。柏崎では、恭順派だった家老の吉村権左衛門様が上意討ちとなったそうな」
「四谷界隈の組屋敷も空家が目立つようになりましたよ」
腰物掛の眉尻がさらに下がった。
「江戸の侍の中には、家財道具を売り飛ばし、屋敷を捨てる者も少なくないようだな。当藩も色々と整理せざるを得ない」
「淋しくなりますなあ」
互いに上の空で、どこか話が噛み合わない。
「四年前の洛陽動乱を知っているな」
「池田屋騒動ですな。新選組が不逞浪士どもを襲った」
「吉田稔麿、北添佶磨、大高又次郎ら十数人が斬り死に、もしくは捕縛された。その中に宮部鼎蔵という肥後人がいた。吉田松陰の仲間だった男だ」
吉田松陰こと吉田寅次郎は安政六年(一八五九)の十月、伝馬町で斬首刑となっており、すでにこの世にいない。安政の大獄における最後の刑死者であり、今や偶像化された偉人である。
「浪士どもの所持品や佩刀は所司代で検分した。誰の差料やら不明のものもあったが、宮部の刀はわかった。生前の吉田と交換したとか、常日頃から自慢していたらしい」
「交換……?」
京都所司代はいわば警察機関で、幕末の騒乱期には桑名藩がその任についていた。所司代の上位機関が京都守護職で、新選組を預かっていた会津藩である。
腰物掛は傍らに長い刀袋を置いていた。
「これがその刀だ」
腰物掛が袋をたぐると、拵が現れた。宗次にも見覚えがある。見ろともいわれぬうちに宗次は手に取り、抜いていた。
事件当時から手入れなどしていないのだろう。わずかだが刃こぼれがあり、ところどころに錆が浮いている。しかし、まぎれもなく、宗次が作り、清麿が吉田松陰に納めた刀である。
「そうですか。宮部鼎蔵とやらがこれを持っていましたか」
「源清麿の銘がある。宮部は自ら立ち腹を切ったので、打ち合った傷はあまりついていない。なかなかの名刀よな」
「いや。たいした名刀ですよ」
「気に入ったか。ものは相談だが、先日、おぬしに脇差を二本ばかり納めてもらったのぅ」
「はあ」
「当藩としては混乱の最中、手元不如意である。これを代金のかわりとしてもらえまいか」
刀鍛冶への支払いを他の刀鍛冶の銘が入った刀ですませようというのだから、馬鹿にした話である。
「清麿は自刃したそうだが、おぬし、親しかったであろう。何なら、他の刀もつけるぞ。池田屋で死んだ大高又次郎は赤穂四十七士の大高源五の子孫だとかで、源五の愛刀と称するものを持っていた。赤穂住則之の作だ」
腰物掛は押しつけがましく迫った。赤穂の刀鍛冶は珍しいので、名前だけは宗次も聞いたことがある。則之というのは江戸後期の刀鍛冶で、元禄の赤穂事件とはまったく時代が合わない。伝来など、こうしたものが多いが。
「いや。清麿だけで結構」
宗次にしても複雑な心境ではあったが、思い入れのある刀である。受け取りを拒否すれば、他者の手に渡る。それは忍びなかった。
「おお。承知してくれるか。すまんの。大高又次郎の刀が気に入らんなら、北添佶磨の刀もあるぞ。この男は池田屋の階段から派手に転がり落ちたとか語り草になっておって……」
「いりませんっ」
宗次の語気は強くなった。