骨喰丸が笑う日 第十九回

骨喰丸が笑う日 第19回 森 雅裕

 軍曹は八七橋以下の囚人部隊を睨め回した。

「偉そうなことぬかして、光機関は女連れで撤退かいな。ええ身分やのう。わしらにもお裾分けしてくれや。さもないと、これやでぇ」

 軍曹はこれ見よがしに拳銃を向けようとした。

「ほれほれ。恐ろしいやろ」

 八七橋の短機関銃が火を吹く方が早かった。もはや威嚇ではない。軍曹は派手に血しぶきをあげながら横転した。

「ひえええっ」

 他の野盗兵たちは悲鳴をあげながら三八式歩兵銃を振り回したが、構えも何もなっていない。囚人部隊が銃口を突きつけると、抵抗しなかった。

「う、撃たないで」

 がちゃがちゃと銃を投げ捨て、溺れるように両手を振った。

「堪忍してくださいっ。悪いのはその軍曹殿ですっ。わしらは軍曹殿に命じられて、仕方なく従っただけなんですう」

「ふん。仕方なく、そんなに肥え太ったのか」

 ボロ布をまとった骸骨のような日本兵が続々と倒れている惨状の中で、この野盗兵どもは前線にも行かず、街道にたむろして物資を着服していたのである。

 一人の兵が拝むように合掌しながら、いった。

「自分なんか、これでもウクルルの野戦病院で殺されるところを逃げてきたんです」

 聞き捨てならないことをいう。

「おい。病院で殺される……とはどういう意味だ」

「自分はマラリアで入院していた輜重兵なのであります。後方へ移送する車両部隊が来るからと、患者は病院近くの谷間へ集められたんです。六月末から七月初めでした。迎えの車なんか嘘でした。毒を注射されたり射殺されたり、自決を強要された者もおりました。なにしろ千人からの数ですから、仕舞いには薬も弾も使うのが惜しくなったらしく、動けぬ患者はそのまま放置です。ウジに食い殺されろというわけです。自分はなんとか這い出し、そこの軍曹殿に助けられたのであります」

「病院から見捨てられるほど半死半生だった患者を悪党一味が助けるというのも妙な話だ」

「自分は輜重兵が物資を隠匿している場所を知っておりましたから」

「お前たちの優雅な軍隊生活はそれを横取りしたおかげか」

「あ、はい」

「なら、お前ら、近くに物資を溜め込んだ根城があるんだろ。案内しろ」

 八七橋がそう命じるのを聞きつけた綿貫少将が、

「ほお。お宝が隠してあるのか」

 と、頬を緩ませた。囚人部隊の足取りも少々軽くなったが、相笠曹長は八七橋と肩を並べて歩きながら、憂鬱な声を発した。

「イヤな話を聞きましたな。ウクルルの野戦病院……」

「有り得る話だ。あの野ざらしの病院なら予想できたことだが……」

 負傷したハカセを置いてきた。他に選択肢はなかった。無事を祈るしかない。

「ガダルカナルでも自決者は多かったですし、追い剥ぎみたいな野盗兵も珍しくなかった。しかし、自決は卑怯だという風潮もありました」

 相笠のその言葉を綿貫が聞きつけた。

「何だ、お前。ガ島帰りなのか。どこの部隊か」

「野戦重砲兵第七連隊」

「ふうん。奇遇だな。俺の弟と同じだ。優秀な弟だ。俺ほどじゃないが」

「へええ」

 相笠は興味なさげな生返事だったが、綿貫は意地悪く目を光らせた。

「野戦重砲兵第七連隊の本隊はラバウルだが、ガ島へ単独転用された中隊があったそうだな」

 野戦重砲兵第七連隊の第二中隊は四門の九二式十糎加農砲をジャングルの奥深く擬装し、この砲の低伸弾道と長射程を活かして、五か月にわたって、米軍のヘンダーソン飛行場へ嫌がらせ砲撃を続けた。米軍は砲陣地を懸命に捜索したが発見できず、憤怒と畏敬をこめ、これを「ピストル・ピート」と呼んだ。

「そうかそうか。相笠……。聞いたことがあるぞ。ガ島撤退の時、敵の逆上陸撃退要員として居残りを命じられ、軍刀抜いてゴネた将校がいたそうだの」

「そうですね」

 相笠は取り合わないが、近くを歩いていたカノンが声を荒げた。

「そうですね、じゃねぇでしょう。相笠さん。あんたが本当のことをいわないなら、俺がいいます」

 カノンは綿貫に強い語気をぶつけた。

「俺はガ島で相笠さんの部下だったんだ。綿貫閣下。あんたの優秀な弟さんとやらも存じておりますぜ」

 綿貫に負けじと挑発的な表情を作ったが、当の相笠は面倒そうだ。

「あのなあ。昔話なんかよりも目の前を見ろ」

 山林やジャングルで戦った者は、人が住む地域は遠方からでも気配で察するようになる。 

「ほれ。宝の山に到着したぞ」

 雑木林の奥の岩場に木々や枝葉を寄せ集めた簡素な小屋がいくつかあり、それが野盗兵の野営地だった。何人かの兵が留守番をしており、近づく彼らを敵意むき出しの視線で迎えた。

「何じゃ、おま……」

 いいかけたのを、

「全員、そこへ並べ!」

 八七橋の怒声がさえぎった。囚人部隊の面々は油断なく彼らを囲み、銃口を向けている。野盗兵どもは一癖も二癖もある面構えだが、人相、物腰の凶悪さでは囚人部隊も人後に落ちるものではない。

「お前らの親玉の軍曹は射殺した。あとを追いたい者は前へ出ろ」

 彼らは顔を見合わせたが、動く者はいない。

「では、物資横領の実態を調べる」

 八七橋にそんな権限などないが、怒りが理屈を越えていた。小屋の中を捜索した。わずか数日の野営地とは見えなかった。

「こんなところに永住でもするつもりか。敵はすぐそこまで迫ってるんだぞ」

 常に英印軍の偵察機が飛び、諜報員や現地人の目も光っている。野営地の所在は隠しきれない。

「もちろん移動するつもりでさア。行商しながら」

 野盗兵たちはニタニタと愛想笑いを見せた。白骨街道には米や得体の知れない肉を売り歩く兵もいる。

「そうか。そりゃ運ぶのが大変だろう。荷物を減らしてやるよ」

 囚人部隊は物色を始めた。小屋の中には米を詰めた麻袋に乾燥野菜、小豆、塩と砂糖もある。

「補給物資の横領は即座に銃殺されても文句はいえんぞ」

 八七橋はそう脅したが、野盗兵は悪びれない。

「軍隊は俺たちに何もしてくれやしねぇ。自力で生きていくしかねぇでしょうが」

「盗っ人にも三分の理だな」

 軍靴があった。綿貫少将は自分のボロ靴を捨て、浮き浮きと履き替えた。その様子を見た野盗兵は、

「あんたたちこそ、俺たちの上前ハネる泥棒でねぇか」

 半泣きで抗議したが、綿貫は冷たく一蹴した。

「ふん。俺は偉いんだから物資を優先的に使用するのは当然だ」

 綿貫は堂々たる図々しさだが、八七橋には良心の呵責がある。

「俺たちだけで独占はしないよ」

 物資を囚人部隊の背嚢に詰め込みながら、いった。

「お前たちにも残しておくし、残りは通りかかる連中が拾えるように街道脇へ運んで……」

 そこへ突然、不気味な風切り音が頭上から落ちてきた。近くで炸裂した。立て続けに砲弾が降り注ぎ、轟音が大地を揺るがした。英印軍の砲撃だ。周囲が爆煙に包まれ、悲鳴をあげながら、野盗兵たちは逃げ惑った。

「そっちは駄目だ! こっちへ来い!」

 八七橋は怒鳴った。彼と囚人部隊は咄嗟に北へと退避したが、野盗兵たちは南へ逃げた。榴弾砲を並べた敵陣地は北である。八七橋の叫びは爆発音にかき消され、届かなかった。

 英印軍の砲撃射程は必ず近くから遠くへと延伸する。こちらが一発撃てば百倍千倍にも撃ち返される最前線の兵なら経験していることである。

 嵐のような砲撃が終わると、あたりの木々はことごとくなぎ倒され、地面という地面は穴だらけになっていた。囚人部隊は無事だが、野盗兵たちは肉塊となって飛び散り、息のある者もいるが、手足を吹き飛ばされ、助かる見込みはない。彼らの小屋も粉砕されてしまい、土砂の中に米や物資が散乱している。

「死体よりも泥まみれの物資の方が胸が痛むぜ」

 誰からともなく、嘆きの声が出た。無事な品々をかき集め、八七橋は指示した。 

「少なくても全然ないよりマシだ。街道へ運んで、通過する兵の目につくように置いておこう」

 野盗兵の死体は砲撃の穴にまとめて埋め、虫の息の者には水を飲ませてやるくらいしかできない。

 力なく水をこぼす兵の口元から相笠は水筒を離して、ちらりと八七橋を見やり、いった。

「軍法会議の手間が省けましたな。英印軍が掃除してくれた」

 八七橋も機嫌はよくない。

「親玉の軍曹は俺が撃ち殺した。後味が悪いぜ」

「戦線離脱の野盗兵だ。銃殺は当然です。殺らなきゃ殺られてた。こいつらは人の心を失った餓鬼だ」

「餓鬼だって、国じゃいい夫、やさしい息子だったかも知れん」

「いいや。本当にいい夫、やさしい息子は軍隊では痛い目を見るだけです。ずる賢い悪党が生き残る。そんな連中が帰国すれば要領よく出世するだろうが、日本は腐っちまう」

 相笠が本心からそういっているのかどうか不明だが、八七橋の心は少しばかり晴れた。罪の意識が軽くなったわけではなく、自分は仲間に恵まれたと実感したからである。

 もっとも、綿貫少将は仲間ではない。げはは、と嘲笑した。

「日本は腐るだと。ほほほ。あはは。へへへ。それならガ島でゴネて生き残った奴も帰国するべきじゃないよな」

 その言葉に反応したのはカノンである。彼は陶然とした表情で戦利品の砂糖を舐めていたが、目つきに現実の光が戻った。

「あのですな、閣下。俺は今、わりと気分がいいんで紳士的に話しますよ。閣下がそこまでおっしゃるなら、俺も昔話をさせてもらいます」

「面白い話なんだろうな」

「相笠さんがゴネたのは事実ですが、経緯はだいぶ違いますぜ。下士官兵だけ残して将校は撤退しろと命令されたのに、部下を置き去りにはできないと相笠さんは拒否し、自分も残ったんだ。俺も一緒です。砲兵なのに、歩兵から餞別がわりの小銃と手榴弾をもらってね。結局、敵と交戦することもなく、命令が二転三転したあげく、ジャングルの中を右往左往させられて、最後の撤退部隊ととともにガ島を離れたんです」

「ふん。そんな立派な将校がなんで降等されたのかな」

「志願して居残ったくせに部下を率いて勝手にガ島を脱出したと糾弾されたんでさア。そう騒ぎ立てたのはラバウルからマニラへ引き上げてきた将校でね。その名前は忘れもしねぇ……」

「ははは。わが弟だったか」

「いかにも。綿貫さんでしたぜ。今回の任務、ディマプールへ綿貫少将とやらを迎えに行くと聞いた時から、イヤな予感はしてたんです。縁者だったとはね……」

「ふん。身の上話はそれで終わりかな」

「相笠さんも俺も『烈』の山砲兵第三十一連隊へ転属となったが、ふてくされて喧嘩に明け暮れる日々。部隊から持て余されていると、宮崎閣下が五八(歩兵第五十八連隊)へ引き抜いてくれたというわけですよ」

「あーあ。一寸の虫にも五分の魂ってわけか」

 綿貫が大仰に欠伸を噛み殺すような表情を見せたので、カノンも怒鳴り出しそうな口の動きを見せたが、相笠が素早く制止した。

「身の上話は好意的な相手に聞かせるもんだ。でなきゃ笑われるだけさ」

 そうそう、と八七橋も呟いた。

 

 アラカン山系の東端に近づくと、標高も千五百メートル前後になり、雑木林と亜熱帯の樹木が混じり合う。フミネはインド・ビルマの国境の町で、密林に覆われた平坦地である。空中で手づかみできるほどのブヨと蚊の大群が囚人部隊を迎えた。

 ここで雀の涙ほどの米と塩をもらい、部隊が荒れ果てた民家で休んでいる間、八七橋は情報収集と撤退路の確認を行うため、光機関の連絡所へ足を運んだ。

 もとは何かの商店だった建物で、ここも撤退の準備中だ。世良中尉に会った。マラムへ綿貫少将救出の命令を伝えに来た男である。

「そろそろ現れる頃だと思っていた。綿貫少将は無事か」

「今のところはな。副官は死んだが」

「囚徒兵たちはどうしてる?」

「一人、ウクルルの野戦(病院)に置いてきた。あそこの患者は自決を強要されるという噂を聞いて、心配しているんだが」

「それは……希望はないかも知れんな。しかし、この先も脱落者が出るぞ。ここいらは疫病の巣窟だ」

「そいつが英印軍よりも恐ろしいよ」

「そういや、お前、英印軍のお尋ね者になってるぞ。何をやったんだ?」

「ん?」

「敵はヤナハシ部隊を探しているという情報が入っている」

「そういえば、伝単に俺の名前があったな。『美術を理解するヤナハシ部隊』とか」

「ははは。そりゃ人違いかも知れんな」

「敵の目当ては囚人部隊なんかではなく、綿貫少将ではないのか。本人によると、重要人物らしいからな」

「綿貫少将の存在は敵に知られているのか」

「行く先々に現地人の目があるんだぜ。威張り散らすジジイは目立つだろう」

「少将がインドで何をやっていたのか、聞いたか」

「教えてくれるもんか。何やら戦争のやり方を一変させる兵器がどうのこうの、のたまわっていた。ありゃ山師だぜ」

「将軍には詐欺師みたいなホラ吹きが多いもんだ」

「いや。本物の山師だよ。何を掘っていたのかが問題だが」

 自分たちが石を運ばされていることは口に出さなかった。光機関の同僚とはいえ、任務の仔細は話さない習慣だ。

「死んだ手柄山という副官は陸士ではなく東大出の学者肌の男だった。彼の軍隊手帳を遺品として預かっているが、軍歴はずっと技術畑だ」

「ふむ。陸軍が朝鮮や中国各地でウラン鉱山を探索している話は耳にしているが」

 世良は八七橋が語らずとも、核心を突いてくる男である。頭がいいというより、八七橋と呼吸が合っているのである。

「インドで掘り当てたとしたら、英印軍がそれに気づいて、綿貫少将を追いかけるかも知れんな」

「気づいていれば、な」

 マッチ箱の大きさで戦艦を吹き飛ばすという夢のような爆弾が開発研究されていることは八七橋も聞いているが、鵜呑みにはできない。科学的に可能だとしても、膨大な費用と資材が必要となるだろうことは想像できる。

 そんな夢物語よりも八七橋には他に気になることがある。

「宮崎閣下はどうされている?」

 烈の佐藤師団長は無断撤退のため罷免され、本来の序列なら宮崎が後任となるのだが、宮崎支隊が消息不明だったので、河田槌太郎中将が後任となった。

「河田閣下が赴任するまでの師団長代理として、宮崎閣下はインターバンの師団司令部へ向かった。閣下は中将に進級された。御本人は喜んでもいないようだが、中将で歩兵団長のままということはあるまいし、市ヶ谷台(参謀本部)に入るような人でもないから、どこか前線の師団長就任が用意されていると思う」

 宮崎はマラムで八七橋たちを送り出す時、必ず追って来い、待っているといってくれた。再会できる確証はないが、約束は守る人物だ。道のりは困難でも、また会えると勇気が湧いた。

 別れ際、世良は乾パンの包みとマラリア薬のキニーネ、下痢止めの赤玉などを少量ではあるが、八七橋に持たせてくれた。

「フミネも物資が払底している。これで勘弁してくれ」

「これだけでもあれば心強い」

 再会を約して、八七橋はこの場を離れた。

 

 フミネを出ると道はいくぶん下りとなり、泥濘化しにくい土質だ。二日歩けばタナンである。ここで変調をきたす者が現れた。外見は誰もが病人に見えるほど疲弊しているのだが、カノンは焚き火の燃え殻を石の上でつぶし、炭粉を飲んでいた。これが日本陸軍流の下痢止めなのである。

「カノン。腹痛か」

 八七橋は世間話でもするように訊いた。下痢は珍しいことではないのだが、これが赤痢であれば事態は深刻だ。

「はあ。しかし、大丈夫です」

 カノンはそういったが、やがてこの男は痙攣性の腹痛で倒れ、動けなくなった。しかも下痢が止まらない。排便のために皆から離れることすらできなくなった。血便を垂れ流しである。

 綿貫が距離を置き、鼻をつまみながら吐き捨てた。

「アメーバ赤痢だな。隔離しないとマズイ。一緒には行けんぞ。俺に感染させるなよ」

 冷たいようだが、それが当然なのである。置いていくしかない。八七橋が赤玉を与えるのを見て、綿貫は口を尖らせた。

「薬なんか与えても無駄じゃないのか」

 赤玉は抗菌薬というよりは下痢止めにすぎない。看護する者がいなければ、投薬も無駄かも知れない。半死半生の日本兵が発症すれば、一、二日で死ぬ。比較的元気なカノンとて数日もつかどうか。

「俺が一緒に残る」

 と相笠が告げると、カノンはうつろな目つきで首を振った。

「そりゃいけません。相笠さん。皆と一緒に行ってください」

「ガ島以来の腐れ縁だ」

 相笠は有無をいわせぬ態度で、悲壮感はない。いかにも戦闘部隊の元・将校である。中野出身者にはない指揮官としての資質を持っている。綿貫少将を護送する任務からはずれることになるが、八七橋も口出しはできない。

「元気を出して、あとから来い」

 そういって、彼ら二人と別れるしかなかった。だが、病人はそれだけで終わらない。

 タナンからシッタンへ南下するカボウ谷地は敵だらけなので、東寄りの山道を進み、ミンタミ山系へ入った。標高千五百から九百メートルの小山脈だが、チンドウィン河の河畔トンへまでは平地が続く。

 その途中で、アーシャが高熱を出した。マラリアである。八七橋がフミネで入手したキニーネを与えようとすると、

「貴重な薬を私に使うべきじゃありません」

 本人は遠慮し、綿貫少将も大きく頷いた。

「アーシャにキニーネを使って、あとで俺がマラリアに罹ったらどうするんだ」

「まあ、その時はその時ですよ」

 八七橋は強引にアーシャに飲ませた。