星光を継ぐ者ども 第十五回

星光を継ぐ者ども 第15回 森 雅裕

 午後には駆逐艦のスクリュー音が聴音機に入ってきた。それも複数だ。

 深度百。伊二五は無音潜航の微速で脱出を図るが、敵のスクリュー音は聞こえ続ける。駆逐艦三隻が散開したようだと聴音長が報告した。三角形の中に伊二五は囲まれたのである。

「探知音入る。百八十度より接近。高速。見つかった!」

「水中高速。取舵一杯!」

「感三。まっすぐ来る。感四。近い。感五」

 不気味なスクリュー音が大きくなる。機関車にも似た死神の哄笑だった。

「直上。爆雷!」

 聴音長は耳からレシーバーをはずし、聴音機のスイッチを切る。乗組員に逃げ場はない。足を踏ん張り、手近なものにしがみついて、降ってくる爆雷を待つだけだ。鼓膜が破れるような爆発音が艦を揺さぶる。しかし、

「浅いな。大丈夫大丈夫」

 艦長も先任将校も顔色ひとつ変えない。

「一隻が艦尾より左舷へ移動」

 聴音長が報告する。

「走り出した。感三」

 伊二五は深度を四十メートルに上げ、急速回頭を始める。探知音を艦尾で受けると死角になる上、伊二五のスクリュー音と水泡が反響音をかき消す。一旦はそれでやりすごし、敵艦は頭上を素通りしたが、

「探知音に高低あり」

 敵は探信儀の送波器を回転させて、さらに捜索している。しばらくして、またしても駆逐艦が突進してくる轟音が頭上にのしかかる。地響きにも似て、衝突しそうな勢いだ。

「艦底通過。爆雷!」

 立て続けに爆発音が襲ってきた。艦が引きちぎれるのではないかと思うほどの衝撃だ。今度は下方で爆発している。しばらくすると、三隻目が右舷から迫り、執拗に爆雷が投下された。

 敵は停止して海が静かになるのを待ち、伊二五の位置を測定する。そして、一隻ずつ交互に高速接近。伊二五は回頭して爆雷の雨を右か左にかわす。その繰り返しだ。

 この袋叩き状態がどれほど続いただろうか。信雄は三隻の敵艦を甲乙丙と区別して紙片に書き込み、それぞれが投下した爆雷数を「正」の字で数えていたが、二百発あたりで疲れ果ててしまった。敵も同様らしく攻撃が散漫になり、爆雷数は減り、距離も遠い。

 逃げ切れるかな、と光明を見出しかけたが、

「まだまだ。長丁場になるぞ」

 先任将校が信雄の肩を叩き、士官室へ促した。

「爆雷がなくなれば、交替の新手が出て来るだけさ」

 そういいながら、自分のベッドの下の引き出しから羊羹を取り出し、食卓に置いた。

「飛行長。甘い物を食って飛行の疲れを癒やせ」

 夢中だったので忘れていたが、確かに信雄は疲れていた。彼は甘党なので、配給の酒が余る。いつも、それを甘い物と交換するのである。引き換えに日本酒の小瓶を渡した。

「山の中に黒煙があがったのは艦上からも見えたよ。やったなあ」

「オーストラリアではオーロラの中を飛んだこともありますが、今日の日の出はわが人生最良の光景でしたよ。もちろん、帰還して母艦を見つけた時の喜びもまた格別ですが」

「命がけで見る光景だもんなあ」

 先任将校は艦長に次ぐ副長ともいうべき地位で、乗組員に睨みをきかせる堅物である。その堅物が戦闘中というのに日本酒を一口飲み、悪童っぽく微笑んだ。信雄も羊羹の皮をむいて口へ入れた。その時、

「先任。新たな推進器音が入りました」

 と、聴音員が悲壮な表情で呼びに来た。

 先任将校は酒をもう一口飲み、いまいましげに呟いた。

「おいでなすった。ふん。たかだか潜水艦一隻に豪勢すぎるもてなしじゃないか」

 新手の駆逐艦による爆雷攻撃が始まった。

 

 伊二五は西海岸にへばりついている。陸岸に砕ける波の音で敵の聴音機をあざむき、這うように包囲網から忍び出ようとしていた。

 延々と続く爆雷攻撃に耐えているうち、すでに十時間が過ぎた。不要電灯は切ってあるが、それでも電気関係からの発熱は艦内にじわじわと溜まっていく。特に艦尾の電動機室付近は焦げるような輻射熱を発している。

 仕事のない者は皆、汗溜まりの中で横たわっている。聞こえ続ける爆雷の音に耐えながら、心身とも消耗した乗組員は苦しげな寝息を立てていた。信雄も自分のベッドで目を閉じ、どれだけ眠ったか、不快な環境の中で目覚めた。

 乾いた喉を潤したいが、飲料水はとっくになくなっている。タンクから汲み上げればいいのだが、ポンプの音が馬鹿でかいため、無音潜航中には使えないのである。やむなくサイダーの栓を抜いたが、口にしてもその生温かさと甘さが不快なだけだ。

 士官室では軍医長がソファに身を投げ出し、写真を大事そうに見ていた。

「家族ですか」

「うん。女々しいといわれるかも知れんが、俺は生粋の軍人じゃないからね」

「私も家族の夢を見ていましたよ」

「飛行長も子持ちだよな」

「息子は国民学校一年、娘は四歳です。オルガンが欲しいというので、玩具みたいな楽器ですが、横須賀で一緒に買いに行きましたよ」

 互いに家族写真を見せ合った。

「そうか。まだまだ死ねんな」

「ええ。ですが、おかしなもんですよ。悲しむ者がいるからこそ安心して死ねる。そんな気もするんです」

「うん。わからんでもない」

 大きく頷いた軍医長だが、すぐに何かを払い落とすように首を振った。

「いかんいかん。じっとしていると、いらんことを考えてしまうな」

 一方的な爆雷攻撃に耐える「従容の死」は潜水艦乗りの宿命ではあるが、死地を脱したあとも心が折れてしまう者がいる。最前線の修羅場では恐怖に浸っている暇はないが、内地に帰還して休息すると臆病風に吹かれるのだ。だが、現代のような心的外傷後ストレス障害などという「病気」は許されない。内地は懐かしいが、忙しい戦場の方が気が紛れるという一面はある。

 しかし今、彼らが直面しているのはひたすら忍耐力を求められるだけの戦場だった。何十時間も追い回されると、高温多湿と酸欠と異臭で艦内は人間もネズミも半死半生となる。

 潜航三十時間を越え、当直を終えた者が通路に倒れ、痙攣している。軍医長がカンフル注射を打ち、艦長に酸素放出を進言した。許可を得て艦内に酸素が放出され、乗組員は酸素ボンベを取り囲んだ。しかし、一時的な効果しかない。

 潜舵手など重要配置の者には炭酸ガス吸収用の防毒マスクが配られたが、ゴム臭い上に付属している空気清浄缶には苛性ソーダが入っており、これが化学反応を起こして、とんでもない高熱を発する。じきに誰もがはずしてしまった。

 潜航前の外気温は十五度だったから、快適な気候だ。しかし今、艦内温度は発令所で三十度、電動機室は四十度を越えている。

 信雄は少しでも温度の低い区画を求め、発射管室へ重い身体を運んだが、ここには彼が横になる隙間はなかった。発射管室は外殻がなく、鉄板の向こうは海中だから、内殻は少しは冷たいのだろうが、機器や配管、配線に覆い尽くされ、触れるのもむずかしい。

 寝ている者の手が当たったので、見ると連管長だ。彼は信雄を見上げ、うわごとのように呟いた。

「一か八か、駆逐艦に向けて全射線でぶっ放すか、八方に魚雷を走らせてスクリュー音を追わせるか、やってみたらどうですかね」

 窮余の一策だが、冷静な考えではない。

「手塩にかけた魚雷の無駄遣いだ。ここは死んだふりの方が得策だよ」

「……そうですね」

 兵員室で叫び声があがった。錯乱してハッチを開けようとする者が出て、ラッタルから引きずり下ろされたようだ。どのみち水圧でハッチは開かない。

 暴れたり怒鳴ったりする元気があるなら結構だ。信雄は感情のスイッチを切り、士官室でへたり込んだ。ベッドの下に各自あてがわれた引き出しが目につき、そっと開けて素早く閉じた。この中のわずかな空気を求めたのである。新鮮な空気を吸えた気がした。しかし、再び開いた時には、何の感動もなくなっていた。

 こんなに苦しいなら死んだ方がましだとも、こんな苦しみの中で死ぬのは御免だとも、とりとめのない思いが浮かんでは消える。そのうち、気絶するようにまた眠り込んだ。

 

 何度となく寝たり起きたりするうち、潜航して丸二日は経過しただろう。敵艦のスクリュー音は遠ざかり、爆発音も間遠になった。

 危機を脱したのか。そもそも現実だったのか。悪夢を見ていただけではないか。そう思いたいが、厠へ行くとこの艦が置かれている現状を目のあたりにする。

 汚物は水圧のため艦外排出ができない。潜航中に使えばたちまち汚物がつまり、排水ポンプが故障する。下手すれば逆流だ。便器はあふれそうな状態なので石油缶が置かれているが、その中も大小便で満杯だ。

(ふん。これで死んだら、芳しい最期とはいえんなあ)

 潜水艦の最期は目撃する者がいない。予定日を過ぎて帰投しなければ、どこかで沈んだものと認定されるだけだ。飛行機乗りの最期も苦痛が伴うだろうが、空の上で花火のように死ぬ方がいい。

(海底では死なぬ……)

 信雄は軍刀を取り出した。人間は具体的な心の支えを求めるものだ。今、この海底にあるのは家族写真と軍刀である。

 今回の爆撃任務でも手元から離さなかった村正だ。地文航法が多い陸軍と違い、洋上を飛ぶ海軍では計器への影響を考え、操縦席に軍刀を持ち込むことは少ない。しかし、生還を期さない任務では、死を恐れぬ軍人も「お守り」を求める。

 抜いた。鞘の中の微々たる空気さえも逃がすのは惜しい気がした。淀んだ薄明かりの中に刀身が輝いている。こいつは借り物だ。貸した方は戻らぬことも覚悟の上だったろうが、信雄は返すつもりだ。いや、売り物なら買い取ってもいい。

 星鉄を鍛えたという光の筋を見つめていると、

「自決でもするつもりか」

 田上艦長が士官室へ現れた。手に数個の缶詰を持っている。

「いい刀だな。だが、そんなもの仕舞え。飯にしよう」

 艦内が狭い潜水艦では食事の定刻などないようなもので、腹が減った者、手の空いた者が適当に食事をとる。

「飯よりも水が飲みたいです。サイダーは甘くて気持ち悪くなります」

 艦長は缶詰の中からひとつを選んで寄こした。

「筍の水煮だ。中の汁は生臭いがサイダーよりマシだろう。飲め」

 なるほど、うまくはないが、水分を補給した気にはなる。

「南方に潜ってる潜水艦はもっと過酷でしょうね」

「高温多湿はこんなものじゃないよなあ。あと十度は高いだろう。もっとも、俺もこんなに長時間、敵艦に追い回されたことはないがね」

 艦長はこの窮地でも茶飲み話をしているかのように悠然としている。

「あまりの熱気に蛔虫を口から吐く者もいるそうだ。寄生虫さえ苦しまぎれに人体から脱出しようとするんだな」

 田上艦長は海軍屈指の潜水艦乗りである。勝って浮かれることも失敗して落ち込むこともない。乗組員の大半に炭酸ガスの中毒症状が出ているというのに、平然としている。艦長は司令塔にいることが多く、そこは艦内で一番温度が低い区画ではあるが、この忍耐力は尊敬に値する。

 艦長は傍らに控えている従兵に向かい、

「日没を待って浮上する。それまで各員、耐えよ」

 と声をかけ、

「飯を食える者は食っておけ。主計長に汁気の多い缶詰を出してもらえ」

 とも付け加えた。

 日没後、動ける者だけが配置につき、浮上した。水上に出ると、艦が不安定にローリングする。それさえも心地よかった。

「内気圧が高い。ハッチを開く時は飛ばされないように気をつけろ」

 先任将校が警告し、見張員は鉄帽をかぶってラッタルを上った。ハッチに頭をぶつける物凄い音が響いたが、備えあれば憂いなし、ケガもなく見張りについたようだ。

「両舷前進!」

 ディーゼルエンジンが轟音とともに動き出すと、台風並みの猛烈な風が艦内に吹き込んできた。甘く新鮮な空気だ。幽鬼のようだった乗組員たちの顔に見る見る生気がよみがえっていく。軽い備品などは風で吹っ飛んでいき、「痛え」とあがる悲鳴さえも嬉しげだ。信雄も肺がこそばゆいような感覚に、思わず笑みがこぼれる。

 軍医長が何やら指差しているので、発令所の計器板の隅を見やると、親子らしいネズミまでもが強風に吹き飛ばされそうになりながら、呼吸をむさぼっている。

 以前、軍医長が駆除しようとしたが、看護長が可哀相だと反対して、生きながらえているネズミである。こいつらも一蓮托生だ。

「駆除しなくてよかったですな」といおうとしたが、風の音が激しいので、やめておいた。

 伊二五は波よけ鉄板と電線引込柱が吹き飛んでおり、夜明けまでかかって応急修理をほどこした。溶接の火花を隠すため、シートで覆いながらの突貫作業だった。

 

 アメリカのラジオを傍受すると、山火事がニュースになっており、日本機が爆弾を投下した模様だと放送していた。大戦果とはいえないが、アメリカ側の動揺が伝わり、伊二五の乗組員たちは溜飲を下げた。

 しかし、当然、沿岸警備はきびしさを増し、潜望鏡を上げようものなら、哨戒機と駆逐艦から追いかけ回される日が続いた。伊二五はコロンビア川の河口からサンフランシスコまで、西海岸の沖を北へ南へと移動しながら通商破壊戦を試みたが、戦果が上がらない。九月二十三日、サンフランシスコ沖で商船一隻を沈めただけである。

 しかも何度か任務変更の電報を受信し、ハワイ・サンフランシスコ間の航路遮断の命令が入ったかと思うと、再びオレゴン爆撃が命令されるという朝令暮改の有様だった。

「もう一度、爆撃するか」

 田上艦長が信雄に持ちかけた。横須賀を出る時、爆弾は六発積んでいる。ただ、敵の意表を突いた前回と違い、次は厳重な警戒をかいくぐって米大陸へ突入することになる。艦長も無理強いはしなかったが、信雄は即答した。

「やりましょう」

 雨が続き、目標の森林地帯は湿度が高かったため、期待したほどの山火事は発生していない。再攻撃は望むところだ。しかし、なにしろ波が高く風も強い。小さな潜水艦から飛行機を飛ばすのは危険な作業なのである。不安はそれだけだ。

 九月二十九日。伊二五は日没後に浮上し、ブランコ岬へと忍び寄った。星空の下に黒々と西海岸の山脈が横たわっている。今回は早朝ではなく深夜を選び、陸岸まで五海里の距離に肉薄した。

 三十日午前一時に発艦。航空灯を消し、夜空に溶け込む。大陸に街の灯りは一切ないが、海岸線は上空からよく見える。高度二千で山岳地帯に侵入すると、山と谷も識別できた。三十分ほど内陸へ進み、前回よりもやや北側に爆弾二発を投下。炎があがるのを確認したが、

「時期が悪かったなあ」

 例年なら、乾燥しているはずの季節なのだが、想定外の天候不順だった。これでは何日も何週間も延焼することはあるまい。

 実際、米軍ではこの二回目の爆撃に気づかなかった。被害もなく、投下地点は戦後も明らかになっていない。

「やれるだけやった。帰るぞ」

 翼を翻した。視界の隅に星が流れて、一瞬、敵機かと胆を冷やす。

 降下しながらブランコ岬上空を経過して、高度三百で海上へ出た。母艦は見えない。機体の右側は月明かりでよく見えるが、左側は真っ暗なのである。

「もう母艦上空のはずです」

 後席の奥田兵曹はそういうが、必死で見回してもそれらしきものは発見できない。落ち着け、と自分にいいきかせた。海兵団入団から十年、水上機搭乗員となって九年。海軍でも屈指のベテランと自負している。こんなことは何度も経験してきた。自分を信じられなくなったら終わりだ。

「奥田。ブランコ岬まで引き返して、航法をやり直すぞ」

「はい」

「敵機に気をつけろ。よく見張れ」

 母艦の位置はブランコ岬から二百五十度だが、暗くて見えない左側にいたのかも知れない。ブランコ岬から二百四十五度に変針し、右側の視野を広げて、再び海上を探す。予定より時間が経過しており、不安がつのる。大海原で機位を失い、自爆前に「天皇陛下万歳」を打電した仲間のことが脳裏をよぎる。

 ようやく前方に帯状の航跡が見えた。光っているのは油洩れだ。

「奥田。右前方に航跡発見! これをたどっていく」

「はい」

 やがて細い艦影が現れた。母艦搭乗員には何よりもうれしい光景だ。

「おい。いたぞ」

「はいっ」

 識別信号を送り、着水した。潜偵を甲板上に揚収するや、三十六計逃げるにしかずとばかり、伊二五は沖を目指して走り出した。

 油の帯を引いていることを艦長に報告すると、

「ははあ。それでやたらと飛行機や駆逐艦に追いかけられたのか」

 田上艦長は苦笑まじりに頷いた。連日の戦闘で重油タンクを損傷していたのである。即座に応急修理と重油タンクの移動が行われた。

 この日以降は荒天が続き、爆弾はまだ残っているのだが、飛行機を飛ばすことはあきらめ、伊二五は通商破壊戦に専念した。

 そして、十月四日にシアトル沖、七日にはコロンビア川の河口沖で、それぞれタンカーを撃沈した。後者は暗夜の浮上攻撃だったので、信雄は艦橋から一部始終を目撃していた。流出した大量の油が燃えさかり、吹き上げる炎の中に救命ボートと船員の姿が見える。敵とはいえ、胸の痛む光景だった。

 伊二五はその阿鼻叫喚に背を向け、一目散に夜の闇へと離脱した。後方は明るいが、前方は何も見えない。何かに衝突するのではないかと危惧するほど、速度を上げていた。地獄の底を全力疾走しているような気がした。

 十月十日。伊二五は米大陸西海岸を離れ、帰途についた。二か月の航海で食糧を食い減らし、十七本積み込んだ魚雷も一本を残すのみとなったので、狭い艦内もガランとしている。