骨喰丸が笑う日 第十一回

骨喰丸が笑う日 第11回 森 雅裕

 榊原鍵吉が天覧兜割りを成功させると「剣客の名誉」と新聞記事になったため、屋敷を訪ねて賛辞を並べる者が続出した。清麿系清矢堂もその一人である。 

 手土産の菓子折を差し出し、顔中に笑いを炸裂させながら、いった。

「すぐそこで、謡曲を歌ったり舞ったりしながら歩いている田舎親父とすれ違いましてね。頭がおかしいんでしょうな。周りの迷惑を考えろと怒鳴りつけてやりました。ははは」

「羽織袴に腰弁当ぶらさげたオヤジか」

「はい。このあたりの住人ですか」

「でもないが、うちにもフラッと入ってくることがある」

「とんでもない奴ですなあ。ところで、先生。新聞を拝見しましたよ。おめでとうございます。先生ならやってのけると思ってました。使った刀は同田貫の豪刀だそうですな」

「まったく違うが、清麿系とか自称している刀剣商がそんな噂を広めているようだな。自分が納めた刀だとか」

「滅相もない。新聞によれば、伏見宮様の御蔵刀だそうじゃないですか」

 新聞記事では「伏見宮邸にては本日行幸あるに付、榊原健吉(ママ)氏始め数名の剣客を招き予て同邸に御秘蔵の名剣を以て甲(兜)切の技を榊原氏に演ぜしめ……」となっている。

「まあ、世間は好き勝手な噂を流すものよな。俺が使った同田貫の豪刀とやらはその場で宮様に献上されたとか、宮様から金十円を下賜されたとか」

「私はですね、本番前の稽古に使う兜鉢を先生にお買い上げいただいたことは真実ですから、それは吹聴して回っておりますが」

「商売上手だな、清麿系清矢堂。前から少々引っかかっていたが、この『系』というのはどういう意味だ?」

「名人清麿の弟子ということで、宣伝させてもらっています」

「刀鍛冶なんか廃業してるじゃねぇか。それどころか、お前、本物の刀鍛冶だったことがあるのか」

「きびしいですなあ、先生」

「おぬし、わが道場の外国人の門下生にも近づいてるようだが」

「はははは。人脈作りでございます。日本の美術品は海外で大評判でしてね。骨董屋もせっせと海の向こうへ送り出している次第で。しかし、本当に甘い汁を吸っているのは役人と結びついた有力者ばかり。フェノロサとかいうお雇い外国人までもが周旋や仲買に精を出し、刀関係は今村長賀やら本阿弥光賀やらが独占する有様。まあ、光賀さんは先年、死んじまいましたが」

「自分も余禄にあずかりたいというのか」

「そういえば、最近、狩野芳崖が素晴らしい不動明王の絵を描いたとか、評判ですね」

「何が『そういえば』なのかわからんが……」

「榊原先生のお屋敷にも狩野芳崖の不動明王がありますな」

「ああ。床の間に掛けてある」

「あれこそ、本画を描くための下絵ですな。榊原先生が不動明王の雛形(モデル)になったとか」

「それもまたいい加減な噂というものだな。絵師はいつも知り合いを雛形にしたといわれるものらしい。似てねぇだろ」

「どうしてどうして。そっくりです。あれ、売ってくださるおつもりはありませんか」

「芳崖先生からもらったんだ。売るわけにはいかぬ。お前が惚れ込んで、どうしても欲しいというならくれてやらんでもないが、外国へ売り飛ばす料簡なんだろ」

「じゃあ、芳崖先生を紹介していただくというのはどうです? 直接、絵をお願いしたい」

「高いぞ」

「なんの。維新後は狩野派なんぞ相手にされず、養蚕業で失敗したり、陶磁器や漆器の下図を描いたり荒物屋をやってみたり、絵を投げ売りしてもまったく売れなかったそうじゃありませんか。その頃の売れ残りでいいんです」

「お前は自分に都合のいいことしか考えぬ男よなあ」

「はい。恐縮でございます」

「まあ、小石川は近いから、俺も散策がてら遊びに行くことはあるが」

「小石川に何がありますので?」

「図画取調掛といったかな。東京美術学校とやらを作るための準備室みたいなもんが小石川植物園の中にある。芳崖先生はそこを仕事場にして、絵を描いている」

「おお。じゃあ、ぜひ私をそこへ同行……」

「無駄だと思うぞ」

「はあ。何故ですか」

「お前、謡曲を歌い舞う田舎親父を怒鳴りつけたといったろ。それが狩野芳崖だ」

「あ? へ? あれが芳崖先生? そ、そんな……」

「あの御仁は俺より二歳年長でな。若い頃から傍若無人だった。ところかまわず歌ったり舞い踊ったりするんだよ。頭がおかしい奴だと画壇では毛嫌いされていた時代もある。執念深いからお前の顔は覚えていると思うぞ」

 

 明治二十年(一八八七)十月、図画取調掛は東京美術学校と改称した。二十一年の晩秋、榊原鍵吉は狩野芳崖に新作を見に来いと誘われ、小石川植物園に立ち寄った。美校の仮校舎があり、教官たちはここで制作しているが、学生はまだいない。美校の第一回入学試験が行われるのは明治二十一年十二月、上野の教育博物館跡に開校するのは二十二年二月である。

 芳崖の新作は観音像だった。観音が手にする水瓶から浄水が落ち、それによって赤ん坊の命が与えられ、地上に降りていくような図だ。

 芳崖はこのところ体調が芳しくなく、いつもの刃物のような剣呑さも感じさせなかった。しわがれた声で、解説した。

「まだ制作途中だが、慈母観音もしくは悲母観音だ。観音は本来は男だが、この絵には母性を投影した。イタリア・ルネサンスにはすぐれた聖母像というものがあるが、日本にはない。西洋人にできることが日本人にできぬわけがない」

「東洋の聖母像というわけか。斬新だな」

「しかし、宋の呉道子の魚籃観音をもとにしているとか、朝鮮の海印寺の木版大蔵経に刷られた観音図と同じだとか、構図だけを見て、遠慮もなく指摘する弟子がいてなぁ」

「ははは。狩野芳崖に噛みつくとは、なかなか見所のある弟子ではないか」

「破門した」

「おいおい。若者の芽を摘んではいけませんな」

「あるお雇い外国人の子だ。日本女との混血だ。フェノロサを通じて、弟子にしてやれと求められたんだが……」

 芳崖は一輪挿しの花瓶を鍵吉の前に置いた。真鍮製で、奇妙な彫刻があった。破れ傘を肩にかついだ鬼が天を指差して何やら叫んでいる図だ。

「俺が目を離している隙に、そこらにあった花瓶にその弟子が彫った。うまいもんだ。こいつの志は彫金にある。絵はそのための心得として、修業していたにすぎない。さっさと本業に戻れといってやった。俺の弟子として、美校へ入りたいようだったが、それは無理な話だからな」

「なんで無理なんだ?」

「美校は男子校と決まっている。音楽取調掛の音校は共学だが」

「あ。弟子というのは女か」

「加納夏雄の弟子に入れるよう、はからってやろうと思っているが、大所帯は嫌だとかぬかしておる」

 芳崖と夏雄は同い年である。

「夏雄さんのところは弟子も多いですからなあ」

 と、鍵吉は相槌を打った。この時はただの世間話だった。その後、鍵吉と芳崖は女弟子の行く末を話題にすることはなかった。

 明治二十一年十一月、もともと肺を病んでいた狩野芳崖は悲母観音がその絶筆となり、東京美術学校の開校を待たずに世を去った。狩野派の掉尾を飾ったこの絵師の享年は六十一歳であった。芳崖には俊英をうたわれた弟子が複数いたが、いずれも師の死後は歴史に埋もれた。

 

 加納夏雄が川村丹奈という名前を知ったのは明治二十三年の第三回内国勧業博覧会の審査会場であった。

 彫金部門の出品作はほとんどが置物や調度品であり、大作がずらりと並ぶ中で、一枚の鐔に夏雄は注目した。鬼女を背負った大森彦七の画題である。「倣利寿 丹奈」と銘が入っている。

「何故、これが入賞しないのか」

 夏雄は審査員としてこの鐔を評価したが、他の審査員たちが反対した。

「はぐれ者の府川一則の弟子ですよ。しかも、今どき刀装具なんて……」

 府川一則の初代は絵を葛飾北斎に学んで北嶺の画号をもらい、北斎の没後は金工の東益常に入門している。幕府の命を受け、銅銭の原型を作るほどの人物だったとも伝わるが、明治九年(一八七六)に没した。二代は安政二年(一八五五)生まれで、まだ三十代半ばの若さ。腕はいいが、廃刀令以降の刀装金工の例に洩れず、無聊をかこっている。

 審査員たちは時代遅れの鐔など、歯牙にもかけぬ様子だ。

「利寿に倣う、と銘があるが、奈良利寿にこんな鐔があるんですか」

「あなた方は知らんのか。清田直という銀行家が所蔵する名品だ」

 清田直は元熊本藩士で、細川家から第十五国立銀行の世話役に派遣された人物である。名刀を多く収集した愛刀家だった。

「川村丹奈という作者は清田さんと面識があるのかな。これだけ精密に写すからには、本歌を手に取って見ているはずだが」

「ほお。夏雄先生は本歌を御存知ですか」

「この鬼女には色気がある。利寿の本歌に負けていない」

「ふははは。おおかた、作者自身を投影したんでしょう。お雇い外国人が日本の女に生ませた娘です。母親譲りの売女ですよ、どうせ」

「女なのか、この作者は」

 ニナもしくはニイナとは変わった名前だが、彫金家としての称号かと夏雄は思ったのである。

「絵もやっていたらしいが、狩野芳崖先生に破門された問題児です」

 そういえば、芳崖にそんな女弟子がいたことは聞いている。芳崖は夏雄の門下に入れようと思案していたが、実現する前に死んでしまった。

(そうか。俺ではなく府川一則に師事したのか)

 一則は腕はいいが、彫金界のはみ出し者である。「加納夏雄何するものぞ」と、夏雄の偽作を行っているという噂もある。そんな人物の弟子では、どれほど才能があろうとも将来有望とはいえぬのではないか。他人事ながら、夏雄は歯がゆいものを感じた。

 

 明治二十三年の四月から七月までの日程で、上野公園を広く会場にして、第三回内国勧業博覧会が開催された。

 加納夏雄が川村丹奈に会ったのは、帝国博物館内の彫金展示室であった。素人とは思えぬ視線で、展示品を様々な角度から観察している少女がいた。顔立ちは混血のようだった。

(もしや、あれが……)

 直感が働いた。まず、若さに驚いた。二十歳になるかならぬかだろう。

「あなたは川村丹奈さんではないかね」

 その娘は夏雄の顔を見やると、拗ねたようにややうつむいたが、視線はしっかり相手をとらえている。

「川村です」

「加納夏雄だ」

「存じています」

「あなたの出品作には感服した」

「へ。賞はいただけませんでしたけど」

 彫金界の頂点に立つ名人を前にして、ニイナは動じない。

「本歌よりも鬼女の顔が若干小さいようだが、これは女だから……ということかね」

「はい。『太平記』では鬼女は楠木正成の怨霊の化身となっていますけど、福地桜痴なる作家先生が正成の娘の千早姫という設定の演劇を構想していると聞いて、その方が面白いかな、と」

「面白いが……賞というものは主催者の権威を示すためにある。つまり、この世界も人間関係がややこしいということだな。あなたは府川一則の弟子らしいな」

「それじゃ駄目ですか」

「ううむ。……どうして府川一則なのだ?」

「先代の一則師匠は葛飾北斎の弟子でしたから」

「ふむ。あなたも北斎の縁者なのかね」

「そんな昔のことは知りません」

「確かにまだ若いな。それにしてはいい腕だ」

「母が彫金やってましたし、刀鍛冶の固山宗次一門の皆さんからも可愛がってもらいました。私が生まれた頃には刀はもういけませんでしたけど、お手玉や人形よりもタガネやヤスリを玩具にして育ちました。そんなこんなで諸々の縁故やツテのおかげで、清田直さんに奈良利寿の鐔を見せてもらい、写しを作りました」

「固山一門は私もつきあいがあった。廃刀令以降、疎遠になってしまったが、そういえば、アサヒという変わり者の彫金家が出入りしていたな」

「母です」

「おお。母上は息災かね」

「亡くなりました」

「そうか。それは残念だな」

「実家が日本橋の酒屋で、私は本所にある別宅で暮らしています。一則師の屋敷に近いので、通うに都合がいいんです」

 夏雄は一則の悪い噂を聞いているだろう。その女弟子に向ける言葉は説教めいていた。

「評価は自分ではなく他人がするものだ。受け入れられないからといって、世間に背を向けてはいけない。自分の根っ子がどこにあるのかを忘れず、自分を卑下せず、他人を見下さず、精進してください」

「ありがとうございます」

 ニイナは小笠原流礼法で辞儀をして、夏雄に別れを告げた。育ちは悪くないから、礼儀は正しい。

 

 府川一則の屋敷と工房は本所にあり、ニイナはここと自宅の両方に仕事場を持っている。

 通ってくる弟子は数人いるが、それも毎日ではなく、大抵は一則が一人で作業している。この日、ニイナがやってきた時、一則はおらず、嫁のマサヨが青い顔でへたり込んでいた。

「ニイナちゃん……」

「どうしました?」

 マサヨは悲鳴をあげながら、すがりついてきた。

「旦那がさらわれた」

「はあ……?」

「ついさっき、あやしげな連中が来て、それで、あ、あなたに、これ」

 紙片を引きちぎらんばかりの勢いで押しつけられた。浅草の地図が殴り書きされていた。

「下手くそな地図だなあ……」

「そこへあなたに来いって」

「誰が?」

「うちの旦那を連れ去った連中が」

「よくわからないけど、誘拐とか拉致とかなら、警察へ行けばいいんじゃありませんか」

「そんなことしたら旦那の命はないって……」

「ふうん。で、いつ行けばいいんです?」

「あなた、わかってないわね。今すぐに決まってるでしょうが」

「あ。そうなんですか。手ぶらでいいんですか」

「早く行きなさい、早く!」

 わけもわからずに追い立てられてしまったが、一人で剣呑な場所へ乗り込むほど無警戒な娘ではない。知り合いの船宿へ寄り、ここで船頭の見習いを兼ねて雑用をやっている府川俊五郎を呼び出した。一則の弟だが、兄とは十五も年が離れており、ニイナとは同年である。彫金の修業もやっているが、遊び全般の方に熱心な若者だった。

「俊五。ついてきな」

「船頭が出払ってるから、お客来たら俺が漕がなきゃならねぇんだよ」

「船を沈める気か、あんたは。そんな迷惑なことやめな。師匠を助けに行くよ」

「兄貴、また喧嘩でもして、警察の厄介になってるのかよ。しょうがねぇなあ。いい年して」

 船宿の主人はニイナの実家と親しいので、俊五郎を連れ出しても文句はいわなかった。

 

 浅草の路地裏、地図の場所には小さな印刷工場があった。俊五郎をその前で待たせ、

「私があぶないようだったら、助けに来て」

 と、指示した。

「あぶないかどうか、どうやってわかる?」

「以心伝心ってやつだよ」

「お前のいうことはわけがわからねぇ。そもそもこんなところで兄貴は何してるんだ?」

「それを今、見てくる」

 ニイナは工場とも倉庫ともつかない建物に踏み込んだ。散らかっている印刷物を見ると、あやしげな政治団体の機関紙など手がけているようだ。

「ごめんくださーい」

 犯罪者の巣窟らしき場所なのに、我ながら間抜けだとは思ったが、奥に向かって声を張り上げた。

 暗がりの中に人の気配が動き、階段の上から返事があった。

「こっちだ。上がってきな」

「嫌だ。何があるかもわからないのに行くわけないでしょ」

 小柄な男が顔を出した。

「私は清麿系清矢堂という骨董商だ」

「何、その間抜けな屋号」

「口の悪い娘だな。母親譲りか」

「母を御存知?」

「清麿師の弟子だった頃、いじめられたもんだ」

「ふうん。いじめたくなる気持ちはわからなくもないね」

「清麿師が死んでから一門は離散した。アサヒが子を産んだことは風の便りに聞いた。君に危害を加えれば、固山一門や首斬り浅右衛門を敵に回すことはわかっている。だから、安心して上がってこい」

 薄汚れた階段をきしませながら上がった先に穴蔵のような部屋があり、ガラのよろしくない男たちが五人ほど待ち構えていた。

「危ない仕事を一緒にやっている皆さんだ」

 と、清矢は粗雑に紹介したが、ニイナは聞いていない。師匠の一則が椅子に縛りつけられていた。数発は殴られたらしく、顔が腫れている。

「私に手を出さずとも、師匠はこんな目にあわせるわけ?」

「抵抗するし、減らず口叩くし、色々と腹が立つ男なのでね」

 ニイナが一則の前にしゃがみ込むと、彼は自嘲的に笑ったが、声は寝言のようにくぐもった。

「すまんな、ニイナ。忙しいのに」

「上野で加納夏雄に会いましたよ。私の鐔をほめてくれました」

「ははは。大御所を呼び捨てにするとはいい度胸だ。あの先生も出品してるんだろ」

「はい。百鶴図花瓶を出品して、一等妙技賞です」

「馬鹿馬鹿しい。審査員自身が一等賞とはふざけた話じゃねぇか」

 平然と日常会話を交わす師弟に、清矢が冷たく割り込んだ。

「やめろ。世間話できる状況じゃないだろ」

「だって、何の用で呼ばれたのかもわからないし……」

「話してやるから、そのへんに座れ」

「長くなるの?」

「始めるぞ。ウィリアム・スタージス・ビゲローというアメリカ人がいてね……」