星光を継ぐ者ども 第十一回

星光を継ぐ者ども 第11回 森 雅裕

 娘の逃避行に手助けしたことを父親に報告せねばならない。翌日、一笑は宮川長春が住む下谷へと足を運んだ。

 長春は上機嫌で迎えた。

「隠れ家を世話してくれたらしいな」

 すでに長春は玲伊から聞いていた。

「お前んとこの春笑が案内してくれるとか。世話になるな」

「差し出がましいことをしました。根本の解決にはならない気もします。狩野春賀がどう出て来るか……」

「なァに。駆け落ちは別に罪じゃねぇんだ。反対したって、子供でも生まれりゃ春賀もあきらめるさ」

「東照宮の修復代はどうなりましたか」

「卑怯者の血縁者が東照宮修復に参加するなど、詐欺にも等しい。逆に弁償しろ、とかぬかしていやがる」

「勝手な理屈があるもんですな」

「息子に駆け落ちされて、町絵師への金払いも悪いとなりゃあ、稲荷橋狩野もいい恥さらしよな。もっとも、恥という言葉の意味も奴らにはわかるまいがな」

 表絵師は狩野家の姻戚筋と門弟筋に分けられる。稲荷橋狩野の家は永徳や探幽という歴史的画人と血がつながっているわけではなく、門弟筋である。狩野の名は免許として与えられているに過ぎない。宮川長春も一笑も叩き上げの町絵師であるから、そんな稲荷橋狩野に対して畏怖する気はさらさらなかった。

 

 師走に入り、玲伊を松戸へ送り届けた春笑が戻った。大根、里芋など詰め込んだ藁縄袋を置き、低く唸るように嘆息した。

「重かったあ。土産です」

「どこか行ってたのか」

「玲伊さんを松戸へ送り届けろといいつけたのは師匠ですぜ」

「物忘れがひどくなってな。お前みたいな風来坊がどこで何してるか、気にしちゃいられねぇ」

「玲伊さん、すっかり百姓に馴染んじまってます。あれなら心配ないでしょう」

「そうか。御苦労だったな」

「あとは春泉さん次第です。明日をも知れねぇのが絵師ってもんだ。駆け落ちなんかやらかして、十年後二十年後にどうなっているか」

「老い先短い俺には見届けることはできねぇな」

「俺が師匠の墓にお知らせに参じますよ」

「俺に墓なんかあるもんか」

 町絵師など芸術家ではない。しがない職人の類である。ましてや天涯孤独の一笑が墓を持てるはずもない。

 親子以上に年齢の離れた師弟がそんな会話を交わした数日後、師走も半月ばかり過ぎた。

 一笑は吉原で遊女の絵を描いていた。芳栄ではない。芳栄は一笑が望んで描いているのだが、遊女屋の主人から依頼され、他の看板遊女をも描いている。

 以前、女への思い入れが絵にあらわれると春笑に指摘されたので、ここは丁寧に描くことを心がけた。その作業中を楼主が覗き、

「一笑さん」

 声をかけた。

「今、狩野春潮さんが玉ね屋に来ておりましてな」

 玉ね屋というのは引手茶屋である。この当時、吉原の揚屋はより簡素化された引手茶屋へと移行しつつある。原則として、太夫、格子という高級遊女と遊ぶにはこうした店を通さねばならず、ここに宴席をもうけて遊女を呼ぶのが手順である。それによって、茶屋には席料、料理屋には料理代、見世には揚げ代が入る仕組みであった。

 一笑は遊びに来ているわけではないので、茶屋には上がらない。だが、春潮という絵師は遊びも仕事も区別がない。

「一笑さんに顔を出して欲しいとおっしゃってます」

「春潮か。芳栄も呼ばれているのかい」

「まあ、そんなような……」

「俺は行きませんぜ」

「まあ、そうでしょうな。恋敵ですからなあ」

「そんなんじゃねぇ。稲荷橋狩野とは少々揉めていましてな」

「ははあ。稲荷橋はあまり評判がよろしくないですからな。私としては、芳栄さんは一笑さんにもらってもらいたいですが。なにしろ、春潮さんは……」

 楼主は苦笑しつつ言葉を切った。

「どうした?」

「いや。悪口はやめましょう」

「悪口なら好きだ。いってくださいよ」

「実は」

「いや、いい。聞きたくない」

 だが、楼主は口に出した。

「博打で借金まみれですよ、あの人」

「芳栄ならもっといいお大尽から誘いがあるだろうに」

「芳栄さんはみんな断っちまいましてね。春潮さんだけはあきらめずに通い詰めて、しかもお前との子供が欲しいと泣きついたりするもんで、芳栄さんも情にほだされたようなあきらめたような……。利口な女ですが、吉原の外の世界を知りませんからな、年明け後は一人で生きていけるわけもなし」

「煮えきらねぇな」

「あのね。煮えきらねぇのは一笑さんで」

「俺はハッキリしてまさア。芳栄のことは絵標本(モデル)としか思ってねぇ」

「またまた……。はいはい」

 楽しい気分ではなくなり、早めに作業を切り上げ、一笑は妓楼から大門へと最短距離を目指した。しかし、

「待ちねぇ。一笑さんよ」

 吉原の中央通りである仲之町を追ってきた声があった。

「芳栄と酒飲みながら待ってたのに、つれねぇじゃねぇか。そう忙しい絵師でもあるめぇに」

 表絵師らしからぬ無頼漢のような口振りだ。これが狩野春賀の長男・春潮である。一笑とは親子ほども年齢が離れているが、敬意などカケラも見せない。常に他人の欠点や失敗を探しているような男である。

 一笑も言葉がぞんざいになる。

「なら、俺にかまわず飲み続けていろよ」

「へへへ。お前さん、茶屋に上がるほど稼いじゃいねぇんだろ。女郎の絵を描いて、いくらになるんだい?」

 他人をけなすこと、他人の懐具合を知りたがること、この男の悪癖である。

「なあ、いくらだい?」

「貧乏暇なし、と答えておくよ。」

 一笑は歩調を緩めない。

「へっ。まあ、のんびりしてる場合じゃないかもなあ。今頃、うちの親父が宮川長春さんのところへ怒鳴り込んでるだろうから」

「何?」

「弟が逐電しちまってな。どうせ玲伊と示し合わせての駆け落ちだろう。どこへ行ったのかと、親父は半狂乱だよ。けへへ」

「覚悟の家出なら、春賀さんが長春師のところへ怒鳴り込んでも無駄だと思うが」

「親馬鹿にそんな冷静さを求める方が、よほど無駄ってもんだ」

「春泉がいなくなりゃ跡目はお前さんが継ぐんだろ」

「そうだよな。俺としちゃ帰ってこなくてもいい弟だ」

「博打なんかやめて、家業に専念しな。吉原の看板遊女を嫁にするんだろ」

「へへっ」

 春潮の短い笑いには嘲りが混じった。ふと、不吉な予感が一笑の胸裏をよぎった。こいつには女に対する誠意はない。直感であった。しかし、究明している暇はない。

 春潮を振り切り、宮川長春の屋敷へ急いだ。下谷に居並ぶ寺院の隙間をたどって駆け込むと、町家であるから玄関というようなものはないが、土間の入口では宮川一門の弟子たち、狩野春賀の弟子たちが睨み合っていた。一笑は一直線に彼らの真ん中を突っ切り、草履を蹴り脱ぎ、奧へ進んだ。座敷に長春と春賀が対峙していた。

「春泉と玲伊はどこにいるんだ、ああ!」

「こっちが聞きたいわ」

 彼らの表情を見ると、そんなやりとりがさんざん繰り返されたらしい。むろん長春は知っているのだが、答えるわけがない。

 現れた一笑に春賀は毒づいた。

「お前さんとこの師匠、卑怯者の末裔というのは盗みまでやらかすのか。息子をかどわかされたとお上に訴えてやろうか」

 春賀は興奮して声が枯れているが、ここまで急いだ一笑も息切れしている。

「聞き捨てなりませんな。いい年した男が若い娘にかどわかされたなんて話はきいたことがない。当家こそ、お宅の息子に娘を盗まれたようなものじゃありませんか」

「狩野と宮川じゃあ、人の値打ちが違うんだよ、値打ちが」

「お宅の春潮さん、博打場に入り浸っているようですが、無頼の徒は値打ちある人間ですかね」

「春潮なんか期待しておらん。どうせ卑しい妾が産んだ子だ」

 春賀は興奮し、こちらが尋ねていないことまで、まくし立てた。

「吉原の女郎をだまくらかして、年季が明けたら品川の岡場所へ売り飛ばそうなんて企むようなクズだよ、春潮は」

「吉原の女郎? 誰のことです?」

 それこそ聞き捨てならないことだが、春賀には興味のないことらしい。

「くだらん女郎の名前なんか知らんっ」

 春賀は逆上して腰を浮かし、その勢いが止まらずに立ち上がってしまった。険悪な気配を読み、隣室で息を殺していた長春の弟子たちが廊下に出て来た。

 一触即発の空気の中で、長春が静かにいった。

「表絵師の名誉を守りたいなら申し上げるが」

 声が震えている。

「東照宮修復の画料を払ってから、偉ぶって欲しいですな」

「おや。もし、そこのお方、どちら様ですかな。わしに説教するとは……。金の亡者が」

 自分のことを棚に上げている。

「そんなに金が欲しけりゃ稲荷橋まで取りに来るがいい。それとも、自分の弟子が大勢いる場所でなきゃ恐いか。ええっ」

 春賀は捨てゼリフを残して席を蹴り、

「帰るぞっ!」

 控えていた自分の弟子たちに声をかけた。

 土間に並べてあった履物を蹴散らし、稲荷橋狩野の一門が引き上げるのを一笑は見送ったが、それは礼儀ではなく、彼らがつまらない置き土産でも残していくことを危惧し、目を離せなかったのである。この疑り深さは一笑の性格の悪さであった。

 一笑が座敷に戻ると、長春は床の間に掛けた自作の美人画を見つめていた。そして、しみじみと呟いた。

「俺はただ絵を描きたい一心で何十年も腕を磨いてきた。しかし、目の前に現れるのは嫌な野郎ばかりだ」

「絵描きでなくても、世の中は嫌な奴ばかりでさア。しかし、厄介ですな。画料はあきらめた方がいいかも知れませんぜ」

「あそこまで侮辱されて、泣き寝入りなんかできるかよ。怒鳴り込んででも、ふんだくってやるさ。年内にはけりをつける」

「私も同行しましょうか」

「それには及ばん」

「くれぐれも一人では行かないように。春賀には俺たちの常識は通じませんぜ」

「はは。こんな忌々しい世の中でも、俺はまだまだ長生きするつもりだからな。行く末を見届けなきゃならん家族もいる。お前のように気楽に老い先短いなどといってはおられん」

 一笑とて気楽なわけではないのだが、宮川長春は元来の育ちがいいためか、どこか能天気である。人間の性悪をもっと警戒すべきであった。しかし、一笑にしても、他に心配なことがあった。狩野春潮が「くだらん女郎」をだましているという春賀の言葉だ。芳栄を指しているのか。

 

 十二月十八日。江戸は雪であった。足元の悪い中、浅草は歳の市で、吉原では年末の挨拶回りが始まり、見世によっては煤払いが行われる。江戸市中では煤払いといえば十三日と決まったものだが、吉原は二十日前後が多い。年末が迫り、張り見世の営業を終えて、門松や注連縄を飾るなど、迎春の支度に入っている妓楼もある。

 吉原の門松は妓楼の門口に立てるのではなく、通りの中央に背中合わせに二列並べる。吉原を南北に貫く仲之町では二十五日に一気に立ててしまう慣例だから、今はそうした正月飾りはまばらだった。

 一笑は吉原の引手茶屋・玉ね屋に芳栄を呼び出した。本来なら「道中」を挙行する芳栄だが、身軽な足取りで雪を蹴散らし、やってきた。この日、彼女が在籍する浦島屋は煤払いで、昨夜の客は朝には帰してしまい、昼は営業していない。

 茶屋の主人が気をきかし、年末挨拶の手拭いを配るという口実で、芳栄を呼んだ。揚屋よりも大衆向けとなった引手茶屋とはいえ、手順を踏むと大金を投じなければ会えない遊女なのである。

 芳栄は手拭いの束を傍らに放り、長屋の女房みたいな口をきいた。

「珍しいじゃないか、一笑センセ。茶屋に私を呼ぶなんて。うちの店に直付けすりゃいいでしょうが」

「歳の市で買い物している玉ね屋の連中にバッタリ会ってな。荷物をドサッと持たされて、ぜひ寄っていって、鯨汁を食っていけと引きずり込まれちまった。お前と食いたいと思ってな」

「……私たちの前にあるのは蕎麦だよね。それもデロンデロンにノビた蕎麦」

「早く来ないお前が悪い」

「私がいってるのは、そういうことじゃなくて……」

「面倒なものだよな、遊女に会うのは」

「ふん。年の暮れに金も使わずに呼び出しておいて、何をいってるんですか。面倒でも、会うことはできる。嫁に行ったら会えないですよ」

「そのことだがなア」

「何です?」

「狩野春潮なんぞのところへ行くのはヤメにできねぇのか」

「だってさ、泣くのよ、あの人。二人で暖め合って生きていこうなんつって」

「本心だと思うか」

「あのさ、私の身の振り方をとやかくいうからには、もっと素晴らしい生き方を用意した上でのことなんでしょうね」

「芝居小屋の三味線方ならアテがなくもない。お前の腕なら、浄瑠璃音曲の師匠にもなれるだろう。道楽息子どもが押し寄せるぜ」

 三味線を弾くにしても、芸者という職業はまだない。歌仙(歌扇とも)という吉原の遊女が初の女芸者に転身するのは翌年の寛延四年(宝暦元年)のことである(宝暦十二年とも)。

「やらないよ」

「え?」

「音曲はもううんざりだよ。仕事にありつけたとしても、住まいはどうするんだい?」

「知り合いの三弦師がいる。三味線作りの職人だ。半分引退したような年寄りで、弟子も皆出ていったから、部屋が空いてる。職人になるって道もある」

「絵師になりたいっていったら、年寄りの絵師のところに居候できるのかい」

「絵師なんぞたいした商売じゃねぇ。人は誰でも絵が描けるからな。だから、絵で食っていくのはむずかしくもある」

「たいした商売じゃないとか、むずかしくもあるなんて、一笑さん自身の言い訳だろ。情けないったらありゃしない。茶屋に祝儀をばらまいて、私に新造や若い衆を引き連れた『道中』やらせてみな。今後の身の振り方の説教は、そのあとにしておくれ」

 芳栄はいつのまにか蕎麦の器を空にしている。視線を器に落とした。

「まずい蕎麦だね。私ならもっとうまい蕎麦屋になるよ。蕎麦屋を世話してもらおうかね」

「よくいえたもんだ。料理や針仕事ができるようになってから、いいな」

 遊女上がりを皮肉って「二十七 長屋一番 手ぶっちょう」という。家事の経験などないから、二十七歳で年季が明けて娑婆に出ても、女として必要なことは何もできない。

「絵を描く用もなさそうだし、私は行くよ。挨拶回りという建前でここへ来たからね。もう馬鹿らしい胴上げも終わった頃だ」

 妓楼では煤払いが終わると遊女たちを胴上げする慣例だ。遊女にしてみれば着物も髪もぐしゃぐしゃにされ、迷惑な行事なのだが、それに参加するのが粋だと思い込み、煤払いを手伝う客もいる。

 外の雪は激しくなったようだ。一笑は芳栄を見送らなかったが、この雪の中を歩く後ろ姿を鮮明に思い浮かべることができた。

 この日は大雪となり、八丁堀で破船の被害が出たほどであった。

 

 十二月三十日の朝である。

 自宅で画紙に滲み止めのドーサを引いていると、

「師匠!」

 春笑が裏通りに続く垣根の間を早足に抜けてきた。宮川一門の中でも一番能天気なこの若者が、血相を変えている。倒れ込みながら、叫んだ。

「長春先生が……!」

 それだけで、一笑は何が起こったかを察した。手にしていた刷毛を落とすように放り出した。

「お前、ドーサ引いとけ!」

 いいつけて、駆け出した。

 下谷の宮川長春邸まで走り抜く体力はなく、途中で何度か歩いた。こけつまろびつたどり着いた時には、土間でしばらく動けず、懸命に呼吸を整えた。

「畜生。年寄りに無理させやがって……」

 奧の座敷に長春は寝かされていた。その顔はどす黒く腫れ上がり、傍らでは長春の息子が看護していた。画号は長助である。彼に尋ねた。

「一体、どうしたんだ、これは」

「稲荷橋へ支払いの催促に行ったんです」

 長助は一門の嫡流とはいえ、親子ほど年長の一笑に対する言葉遣いは丁寧だ。

「昨夜、帰ってきませんで……今朝になって、鉄砲洲の河口近くで見つかりました。この寒空の下、荒縄で縛り上げられて、ゴミ溜めに打ち捨てられていました。腕を砕かれて、もう絵筆を持てないかも知れません」

「稲荷橋へ一人で行ったのか」

「弟子の春円を同道しましたが、こいつも足腰立たない大ケガで……」

 長春は意識がなく、掻巻の中で時々、獣のような唸り声をあげた。

 見守る長助は涙ぐんでさえいる。

「やったのは春賀と春潮。それに稲荷橋狩野の弟子ども数人です」

 温厚な長助がこれまで見せたことのない怒りをむき出しにした。

「一笑さん。私は仇を討ちますよ」

 すぐにでも飛び出していきそうな気配だ。

「まあ待ちねぇ。仇を討つのはいい。だが、あんたはまだ若い。軽挙妄動はいけねぇ」

「親父を半殺しにされて泣き寝入りしたんじゃ、それこそ赤穂の臆病者の血筋だと笑われます」

「どうしても……っていうなら、あんた一人を行かせやしねぇよ。だがね、今は稲荷橋も仕返しを警戒しているだろう。油断を待つんだ。それこそ赤穂の浪人どもの討ち入りと同じだよ」

「しかし……」

「春賀と春潮を討ち洩らしちゃ意味がねぇ。在宅の時を調べるんだ」

「なるほど。吉良上野介が茶会で在宅している時を狙ったように……ですか」

 事件が大きくなれば、宮川一門は廃絶となるかも知れない。長助が頭を冷やしてくれればそれでよし、その時は老い先短い自分が一人で稲荷橋狩野と差し違えようと考えた一笑だが、長助はおとなしくて生真面目な男だけに、思いつめたら後戻りはできないだろう。