87. 磨上について再度〈その一〉

本欄では刀の磨上について、私なりに論じてきたつもりであるが、読者の皆様の声として”わかりにくい”という感じがあるようであり、重複する点があるが茲に説明旁々、既述内容を今少し詳しくお話することにした。

 今から四十年程前、私は生涯のテーマとして「磨上」と「再刃」を追及していくと決めたが、そのいづれもが従来の刀社会からは等閑視され、正確にいえば触れない、出来るだけ触れないようにする風潮が極めて強かったし、複数の目釘孔があればいとも簡単に磨上か大磨上と見なしてきた。(以下敬称略)

 また、反面、磨上も再刃も既にわかっているものとして、時の権威者なども適当に扱ってきた。では、『日本刀要覧』(藤代義雄著・昭和15年刊)から磨上工作の図(A)を示しておく。さらに、戦後になって出版された『日本刀の掟と特徴』(本阿弥光遜著・昭和三十年刊)の図解(B)も載せておく。

 さて、藤代義雄は常々私が書いていますが、優れた研究者であり、極めて頭が柔らかい進歩的な考え方をした人でありますが、実際の磨上工作ではこの程度の図解です(但し、本業の刀剣商としての同氏については述べる立場ではないので)。

 勿論、両書は一般的な解説書でありますから、しょうがないと言えばそうでしょうが、こうした解説は戦後の日刀保の指導者達が書いた本においても全く同様であり、その域を一歩も出ていないのであります。参考に『日本刀大百科事典』(福永酔剣著・雄山閣刊)からも図(C)を転載しておきます。藤代義雄にしても、本阿弥光遜にしても、日刀保にしても簡単すぎる磨上の解説でしかない。従って本欄の読者や戦前からの先輩達も、いとも簡単に太刀(刀)の磨上は出来るとしか思っていないのであります。こうした現状そのものが、私が本欄で解説してきた点が「わかりにくい」という先入観を与えたと考えられます。

 磨上とは藤代義雄、本阿弥光遜や日刀保の説く刃長だけの問題ではないのです。刃長などは、要求されている刃長のみの長さを磨上る予定の太刀の棟に切り込み、棟区を作れば済むことでありますが、太刀や刀には”厚み”が厳然として存在します。厚みのない紙切れであれば磨上はすぐに完了するのです。太刀や刀には厄介なことに生中心の場合は”研溜”が厳然とあります。研溜とは刃区、棟区を水平に結ぶラインから少し下の所で、錆際とも云う所です。

 磨上げる直前の太刀・刀ではこの部分が刀身で一番分厚くなっているのであり、この部分から下(中心尻)に向かって、そして区や刀身上部に向かっても段々と薄くなります。殊に古い太刀などは先の方の重ねが薄くなっているのですから、研溜との重ねの差は大きくなる一方です。そして、この生中心の時の研溜が、磨上られた時、新しい中心の中央部付近になってきますし、磨上た寸法分の刀身が新しい中心の上の部分になってきます。新しく形成した中心の中央部が一番分厚くなってしまうという考えられない状態になりますから、この部分をなんとかしないと鎺も作れず、柄にも入らず、従って拵も出来ません。

 つまり、端的に言うと、磨上は長さを短くするだけではないのです。前掲の磨上図解はただ長さだけを表面的(二次元的)に図解したにすぎず、本当に一番困難で厄介で注意を要する点には何一つ触れていないのです。

 では、一番重要な点とは何か、それは磨上げる前の中心にある研溜の厚みをどの様に処理するか、つまり、三次元的な重ねの処理しかないのであります。それに加えてもっと大事な所があります。それは銘であります。磨上げる時、銘は絶対に最優先で残すというのが至上命令ですが、他にも準至上命令があります。それは磨上げる前の中心にある古い錆であり肉置です。

 銘や古い錆・肉置を全く無視して、中心の両面にヤスリをかけて削ればそれで新しく中心を形成出来るので、これで良いではないかと考える人がいるとすれば、それは文化、美術品の破壊行為です。たとえ磨上げても最大限に銘や古い錆、さらに古い中心全体の肉置を極力残す工作をするのであり、これが本当の磨上です。

 以上、述べました以外に必ず施さなければいけない工作があります。それは、磨上げる前の太刀や刀の刃文を磨上げる寸法(長さ)程度を処理しないと、新たに刃区を作れません。棟には焼刃(刃文)がありませんのですぐに棟区は作れますが、刃区は絶対にそのままでは作れません。

 ではどう工作するのでしょうか。それは新しく作る刃区より下部の刃文に熱を加えて、ヤスリがやっとかかる(刃区が作れる)状態にしますが、これが難作業なのです。熱というのは刀身の表面を冷やしても、結果的に内部から伝わってしまうので、生の焼元から新しい刃区の前後まで少し匂口が眠くなる程度、つまり、これでヤスリがやっとかかる(ヤスリで削れる)程度で加熱をやめるので、磨上げた寸法分だけの匂口(刃文)が新しい中心の方に僅かに残されるのです。これを拙著『刀の鑑賞』や本欄(その二十八)で写真と押型で示しましたので、是非それをもう一度参照して下さい。こうした所作は従来全く言われなかった事ですので、極力ご理解を願いたいと存じます。

 さて次回は”厚み”の点を詳しく述べてみたいと存じます。

平成二十九年二月 文責 中原 信夫