65. 偽物について(その十七)  清麿 ・真雄の偽物

今迄は少し細かい点を指摘しての偽物の見分け方であったが、今回は気楽に見分けられる例を二つ紹介してみたい。

まず(A)図を見て頂きたい。平造、刃長一尺一分五厘の脇指である。銘文は「吾常信於富士久神霊正降而移此刃紋後世必有奇特矣」「弘化元年甲辰仲秋 源清麿慎造之」と長銘にキチッと刻ってある。刃文は五の目乱で、地肌に富士山の形に焼いた所作があるもので、昔から有名?なものである。

本刀は「大日本刀剣新考」(内田疎天著・昭和8年刊)に所載(851頁)で、清人の代作、代銘とある。併し、「刀の偽銘」(光芸出版・昭和48年刊)で福永酔剣先生が本刀は偽銘であると結論されている。その理由は弘化元年は清麿はまだ正行銘であるという事実を指摘された。戦前では清麿改銘が弘化三年秋という事が恐らく余り認知されていなかっただろうし、古刀偏愛傾向が強く新々刀に対する意識・注意力も乏しかったであろう事に起因するのであろう。

尤も、この脇指は「刀剣銘事典」(川口陟著・南人社昭和3年刊)にも所載があり、当時は仲々の市民権を得ていたフシがある。昔から「長銘と二字銘には注意しろ」と言われている好例であろう。

但、今回使用した押型は戦後に採取された押型と思われるので、神霊による加護もなく本刀は今だにどこか地方廻りをしているかも知れない。因みに、私は本刀を経眼していないのであるが、「大日本刀剣新考」には「板目鍛細かく、錵(にえ)匂深し、鎺本(もと)に富士の影うつりあり」と書かれているが、「影うつり」とはどの様なものかは私はわからない。多分”うつり”ではなく焼刃ではないかと思うのだが、、、。それにしても、ここまで堂々とした立派?な切銘と焼刃(刃文)をやるのだから、相当に上手な刀工であろう。

昭和初期の本に所載であるから、大正末頃以前までの作刀となる。上限は銘文にある弘化頃の少し前である。とすると、この謹直?な銘字と中心仕立からみて、やはり清麿・真雄に有縁の刀工のような気がしてならない。それにしてもここまでの作を残せる腕前が惜しい。但、刀身と切銘は別人という可能性も十分にあるが、、、。ひょっとすると浜部かとも思われる。何といっても廃刀令というものが残した悲しさであろうか。

いずれにせよ、偽作をする精神的に屈折した人間の所業に思い知らされる気がするのは、私だけであろうか。偽物をなくすには、まず人間の精神の向上と安定の方が先決問題であろう。

では次に(B)図を見て下さい。銘文には「文久改元仲秋山浦真雄造之 松城候臣巌下清儀佩刀」「起居食息存心報国」とある。一応、銘文のままにみると、山浦真雄(清麿の兄)の文久元年紀の作刀で、立派な注文打であるが、銘文をよくみて頂きたい。誤字が一つある。

その前に、本刀は山浦系そのものであるから、本稿で度々触れた目釘孔と鎬筋の関係では、一見して問題はなさそうであるが、指裏が怪しい感が強い、、、。

併し、問題は銘文(指裏)にある「松城候臣」である。もうおわかりの筈である。銘文の「候」は「侯」の間違いであることは明々白々である。「候」と「侯」では意味が全く通じないばかりか、真雄の抱主である松代藩の殿様を愚弄する事になり、単なる間違いではすまされない。

「候」と「侯」の使い方などは武家出身の真雄であるから、間違うことは断じてないものである。従って、本刀は「候」の一字を見ただけで偽銘と断定出来る。この「候」の銘字をみても明らかに「人」”偏”と”旁”の間が広くあいてるので、「侯」の中に縦棒の一画を加えた後刻(改鑚)の可能性は全く無い。

しかも、「候」の下の「臣」という銘字は、この一つだけが銘字全体の中心線を大きく右側へ外している点も、謹直・端正な銘文を刻る山浦系としては考えられないものであろう。

以上二振の偽物を紹介したが、二振ともにこれだけ銘をうまく刻れる才能がありながら、何らかの理由、例えば本人の精神的屈折か、経済的理由か、面白半分の悪戯かは知らないが、全くその才能が生かされていないのが何とも悲しいのである。しかも、刀好の人達が偽作と知らずに購入したとしたら、その刀好の人達の多くを巻き込んで、どんどんと悲喜劇を繰り返す事になる。

こうしたことが、刀社会の精神的な低下を招き、他の古美術社会や一般社会からも私達の社会が低レベルとみられるという事を、深く認識するべきであろう。

(平成二十七年三月 文責 中原 信夫)