16. 再刃について

 日本刀は美術品の範疇に入るが日本刀以外の美術品にはなくて日本刀にはあるもの、それは再刃と研磨である。日本刀に偽銘はつきものであるが日本刀以外にも つきものである。従って研磨は別にしても再刃というものがある意味で別の再生であるから日本刀にとって厄介なものであると言いうるが昔から刀剣の社会で は、その再刃を避けて通ってきた。

 現在までに日本刀の本は沢山出版されてきたが磨上と再刃は本当のことが殆ど触れられないままになっている。しかし本欄では既に磨上については述べてあるので今回は一番避けて通りたい再刃について言及してみたい。

 その前に再刃に対して昔と今では考え方が全く違うという事、つまり昔(江戸時代まで)は再刃であっても刀として役に立つなら敢えて大事にしたと考えられるのであるが明治以降は再刃は死の宣告と同義になってしまっている。

 こうした点から私は今まで本欄にも全く触れようとしなかった。

 さて再刃というのは何らかの理由で日本刀が焼けたので再び焼入れを施す。これを再刃というが私の経験から言うと再刃には一律の見方では見破れない領域があ る。つまり日本刀が健全な状態で再刃されたら全く区別は難しいのである。ある程度以上、刀剣が疲れていた状態で(健全ではない状態か、それに近い状態)で 再刃すればかなりの確立で再刃とわかる。

 江戸時代、明暦の大火で焼けた江戸城内の刀剣を康継が再刃したという話は有名である。その時、何本かは再刃不能であったとされるがでは再刃がうまく施され た刀剣はどうなったのか。恐らく何食わぬ顔で諸大名への返礼として下賜された筈である。諸大名からは良刀を献上させ幕府は再刃とレッテルを貼らない で・・・・・という事になる。まして江戸市中で焼けた膨大な刀剣は恐らく再刃されて蔵刀、贈刀となった筈である。勿論それらの再刃された刀剣も日本刀とし てある程度以上に役に立った筈であったと思われる。

 つまり昔の人は再刃に対する概念が美術品のみの日本刀としてしか見ない現代人とは全く正反対とせざるを得なかったという点をしっかりと認識して頂かないと私の再刃観は “百害あって一利なし” となってしまうのである。

 総体的に再刃を見破る点を申し上げておくが第一に中心の錆である。古い錆をめでるのは再刃を十分に警戒してのことである。俗に言う “良い錆” の日本刀に再刃すれば錆は無惨な状態となるから錆を最重要視するのは再刃を考えての事である。つまり再刃が一番表面に出るのは中心になる。乾いた錆、鑢目 ない又は、はっきりしないもの、銘に力がないもの等々、すべて中心に火が入るからであってこれ以上の見所はないといっても良い。

 従って古い中心の全面(両面)にブツブツとした穴があったり、とろけたような所作は再刃を疑ってみる。こうした所作を極力さけるために再刃の時、中心を極 力焼かないようにするが、そうすると必然的に刃区あたりの温度が上がらない(上げられない)ので再刃しても焼き落としになる確立が極めて高くなる。

 昔から日本刀が折れないために焼き落としを施したと言うが何のことはない焼き落としがそんなに効果があるなら古い太刀は全て焼き落としになっている筈。つ まり一番大きな欠陥を特例事項としてうまく言いくるめたのである。勿論すべての焼き落としを再刃とはいえないが十二分に再刃を疑う余地はある。

 第二に日本刀の健全度と刃幅の深さ、そして反りの状態の総合判断である。日本刀の健全度の見方は拙著『詳説 刀の鑑賞 (基本と実践)』に解説してある。反りの状態については二つ重要な事がある。つまり短刀には必ず反りがある事。つまり最初から筍反り(内反りとも)はない (但、末古刀は除く)。次に太刀で最初から先が伏さった(直刀状)形姿はないという事。これも拙著に解説してある。これを下地に健全度と刃幅と反りを比較 して頂ければかなりの再刃物を見破れる。刀身は高年齢でありながら刃文は若いギャル嬢ではアンバランスとなる。

 このアンバランスが何故に出現するのか、その原因が再刃であります。

 但、前述のように再刃する前の刀身の健全状態によって様々なケースが出てきますのであくまでも総合的判断であります。また昔から変わった刃文、つまりその 刀工に全く見たことがない刃文を見たら矢張り警戒するべきだと言われているのもこの再刃を頭に入れた上のことでもあります。又、室町中期までの備前物には 必ず移(棒状や乱状)が出ますがそれらが無ければ(鮮明でない等)当然再刃を考え、あとは中心の状態との総合判断です。

 さて再刃を施す折には無難な焼入れ(つまり予想以上の反応は刃切れをださないために)を心懸けます。再刃では水影というものがよく云々されますが出る ケースもあり全く微塵も出ないケースもあります。又、焼き出し移(大坂新刀の乱刃には大体出ている)を水影と誤認するケースもよくあって仲々説明しにくい のですが単なる一つだけの所作で再刃と決めつけるのは絶対に慎むべきであります。水影よりも前述の中心の状態や健全度と焼き幅と反りの関連を最重要視する べきであってそれ以外にはないと思います。

 それから従来から言われている沸がギラついたり異常なチリチリとした地景状の所作が地肌に出たりする特徴も状況証拠としては判断材料になります。

 以上がおよそ再刃を見破るポイントでありますが次の考え方を皆様で考えて頂こうと存じます。

 つまり再刃の古名刀(在銘)をどのように扱うかであります。現在では再刃と烙印を押されれば再刃ではない同作との価値が大きく隔たりますので再刃の烙印は 極力隠します。再刃の刀(太刀)を如何に処するのかの確たる方向性が固まらなかった。これが私が今まで再刃を詳しく解説しなかった否、したくなかった最大 かつ最初の理由であったのです。

 再刃の日本刀は棄てる他にないのか否、それでは愛好の精神に反しますし先人の残してくれた文化財も葬り去ってしまう事にしかなりません。

 私は最近このように思うようになりました。つまり歴然とした再刃にはちゃんと再刃と明記して価値も再刃でない物よりもかなり大きく価格を下げて流通させるのかベストに近いベターな活かし方ではないかという事であります。

 最近の愛好家で一番横着な態度をとる人々が云う事、それは「鎌倉時代の太刀でも疵、欠点のあるものはダメ・・・・・・」というような態度をです。こんな ことを本気で思っているから無銘極めで健全そのもの(何のことはない本体は時代詐称及び産地偽装)であるマガイ物を喜んで買うことになる。

 七百年前の日本刀にはそれ相応のヤツレ、疵、欠陥が必ずある。鋩子のない事もまさにそうした典型であります。逆に鋩子がなくなる程の経年による変形をした のだから古いものであるという見極めが可能なのであります。たとえ再刃であっても何百年も前の在銘なら再刃を明記の上それ相応の価格で流通させる事これが われわれのせめてもの役目でもあり一番順当な考え方でもあると考えております。

 これが十分に浸透すれば「物を活かす」「今あるものを活かして使う」「今ここにあるものを活かして使うべきである」という自然な考え方に到達していく事になるのではないでしょうか。

 本欄に先月に書きました伊賀焼の花瓶の耳を欠いてまでの悪業(美の追求という名の破壊行為)は真の美とはなり得ず厳に慎むべきであると私は考えております。是非、前回の本欄も今一度ご参照ください。

 最後に再刃は各々のその現場を全て見たわけではないのですから私が再刃と決めるケースは「再刃と考えれば殆どの理屈が通る」という根本的な考えが大前提である事を必ずご理解下さい。

(文責 中原 信夫)